後白河院と寺社勢力(29)「邪濫の僧」から「悪僧・神人」へ

 延喜14年(914)に三好清行が憂えた「邪濫の僧」は、(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/)、

 院政期にはいると、末社関係にある神社の神人と結託して(例:延暦寺の僧は日吉社の神人と、興福寺の僧は春日社の神人と)、神輿を奉じて数千人規模で嗷訴を繰り返し、公家体制を脅かすだけの戦闘力と経済力を備えるまでになっていた。


 保元元年(1157)、即位間もない後白河天皇が保元新制を発布していち早く着手した事は、朝廷を脅かし、武士とも互角に対峙するまでに力を蓄えた寺社勢力の勢いを削ぐことであり、中でもその中核ともいえる悪僧・神人の取締りを強化する事であった。


以下にそのポイントを列挙すると、

(1)国衙役人、郡司、百姓が寺社荘園の荘官・荘民となることの禁止。


 10世紀前から国司(国守)の収奪を逃れて寺社荘園に駆け込み、自ら荘官・荘民となる者が続出していたが、院政期に入ると、摂関家に前途を阻まれた受領層(国守)が、任国から搾り上げて蓄えた富を上皇に寄進して(成功)※院の側近となり、中央政界で発言力を増す風潮が強まっていた。

 つまり、富裕な任地で富を蓄えた国守は上皇への成功によってさらなる富裕国への赴任や重任を任官されて益々富裕になり、その見返りにまた上皇へ成功をするという悪循環が生じ、それと供に富める国守と貧窮の国守という格差も拡大していたが、これは何よりも搾取される農民・百姓にとっては耐え難く、寺社荘園にでも逃げ込む他は無い状況が生まれていたのである。

 とは云っても、これを放置すると国家財政の破綻に繋がり、朝廷としてはこのような行為を脱税として刑罰の対象として改めて厳しく取締まることにしたのである。


(※)成功(じょうごう):平安時代以後、資財を朝廷に献じて造営・大礼などの費用を負担した者が、任官・叙位されたこと。売官の一つ。


(2)伊勢神宮石清水八幡宮・上下鴨社・春日社・日吉社祇園社等、諸社の神人の乱行の禁止、ならびに新たに神人となることの禁止。

    
 国守の搾取から逃れる者が全て頭を丸めたわけではなく、中には賄賂を贈って神人身分を買う者も少なからずいた。本来、神人には定数があるが、神社側も経済的利益のために彼らを積極的に受け入れた。

 これに対して朝廷は、神社勢力の抑制と神人の増加を防ぐために、神社側に神人名簿を提出させ、さらに、本人が神人であることの証文も提出させて、神人の増加を永久禁止にした。


(3)延暦寺園城寺興福寺・金峰寺など、諸寺・諸山の悪僧の乱行を禁止。


 三好清行が「邪濫の僧」と名付けた輩は、院政期には裹頭に刀杖(刀剣類の総称)を携えて嗷訴の中心勢力となり、他方では徒党を組んで国司や民家を襲い、さらには宗門闘争に明け暮れて武力を恃みとするようになり悪僧と呼ばれた。


 保元新制はこれら悪僧の乱行を取締るために、縁者に命じて悪僧を出頭させるように、また、それに従わない縁者は共犯と見做して刑罰の対象とした。


【朝廷や武士に一歩もひけを取らないほどの恐ろしい力を持つ悪僧の報復を考えると、果たして当時の警察権力に協力した悪僧の縁者が存在したかどうか(私のコメント)】


下図は裹頭頭巾に刀杖で武装した延暦寺の僧兵


(「続日本の絵巻3 法然上人絵伝中」中央公論社より)