後白河院と寺社勢力(27)寺社荘園(6)義経逃亡と不入権

 文治元年(1185)、源頼朝源義経追補を目的として嫌がる後白河院を何とか説得して何とか守護・地頭設置を認めさせ、全国に有力な御家人を配して厳しい捜索を続けたが、その甲斐も無く2年近くも義経を捕縛することは出来なかった。その義経は頼朝の強い圧力に屈した平泉の藤原泰衡に攻め立てられて、文治5年(1189)年に31歳の若さで自害するのだが。


 後年つくられた「義経記」などの物語は、鞍馬や吉野などの畿内を転々と潜伏して奥州平泉に逃れた末に藤原泰衡の裏切りにあって自害する薄幸の英雄を語り伝え、そして820年後の私たちのような判官贔屓は、桜が満開の吉野で繰り広げられる「義経千本桜」や、安宅の関所で心ならずも主を打擲する弁慶の慟哭を描く「勧進帳」の舞台で、兄の憎しみから逆賊として追われ、花も実もある若さで死ななければならなかった英雄の運命に涙する。


 さて、哀切なロマンは脇に置いて、朝廷と鎌倉幕府の厳しい追及を掻い潜って一体どんな経路をたどって義経は奥州に逃れる事が出来たのであろうか。


 「中世の寺社勢力」(ちくま新書)の著者伊藤正敏氏は、九条兼実の日記「玉葉」と頼朝挙兵以降の鎌倉幕府の記録といわれる「吾妻鏡」の記述から、興福寺延暦寺高野山金峯寺といった錚々たる寺院の僧侶が義経を匿った次のような興味深い逸話を掲げている。


興福寺

 興福寺の僧、聖弘が義経を匿っているとの情報を聞きつけて関東軍勢が奈良に駆けつけたときには既に義経は逃亡していた。軍勢は聖弘の身柄引渡しを要求したが、寺側は重要法会や鎮護国家祈祷に支障をきたすとして拒否し、興福寺は寺独自の検断で聖弘を捕縛して朝廷に引渡している。朝廷経由で幕府に引渡された聖弘は頼朝を前に「自分が義経を伊賀まで送ってやった」と臆することなく明瞭に述べている。


延暦寺

 悪僧と呼ばれる三人の僧に義経が匿われ比叡山に隠れている事が発覚して、朝廷は天台座主延暦寺の長官)に彼らの捕縛を要求したが、延暦寺側がもたもたしている内に二人の僧が逃亡し、残った一人についても天台座主は追手に「鎌倉幕府に身柄を引渡すのではなく朝廷に引渡すように」と要求している。 
 ところで三人の悪僧の一人俊章は、あの、武蔵坊弁慶のモデルとされ、彼は逆賊として追わる義経一行を暫く自分の住坊に匿った後に、山伏などに扮装させて陸奥まで送り届けたとしている。


金剛峯寺

 真言宗の総本山、高野山金剛峯寺にも義経を匿った嫌疑が掛けられ、容疑の僧を引渡すように鎌倉幕府は武士を派遣したが、直接足を踏み込んで捜索することはせず、可能な限りのプレッシャーをかけながらも「間接捜査」を要求するに留まっている。


 以上の逸話は、「鎮護国家」の祈祷を旨とする興福寺延暦寺金剛峯寺などの大寺社は、検田・租税徴収のための国司(国守)や、検断(※)の為の守護・検非違使といった警察権力の立ち入りを許さず、自ら独自の裁判所や警察機構を備えて、逮捕・裁判・処刑を行なう不入権を有していたことを示している。

(※)検断:中世の警察権・刑事裁判権のこと。またはそれを行使すること。


 しかし、いずれにしても、これらの大寺院が、朝廷にはそれなりに協力的な姿勢を示しながら、頼朝の支配する鎌倉幕府に対しては相当強い反感を抱いていたことが読み取れて興味深い。



延暦寺の根本中堂(「続日本の絵巻 法然上人絵伝 下」中央公論社より)。