後白河院と寺社勢力(22)寺社荘園(1)伊賀守が太政官に泣きつく

 任期終了を控え自らの悪事の痕跡を消すために帳簿改竄をさせた挙句その書生を殺害した日向守藤原某、馬に乗ったまま谷底に落ちながら引き上げられたときには平茸を掴んでいた信濃守藤原陳忠など、今昔物語が国守の貪欲さを見事に浮き彫りにしたように、中央貴族が地方政治を国守に丸投げした10世紀の初め頃には、国守の多くは任国を私腹の源泉と捉えて苛烈な収奪を行なっていた。


 ところが、11世紀の中頃には収奪どころか、国家の財源となる税の徴収もままならない状況が生じ、さすがの国守も太政官に訴える他には術が無い状況になっていた。


 例えば1053年(天喜1)、伊賀守藤原棟方(むねかた)の太政官への訴状はつぎのようなものであった。

【わが任国(伊賀国)4カ郡のうちには、右大臣家藤原教通)・東宮太夫家(藤原能信)・侍従中納言家(藤原信長)・内大臣家(藤原頼宗)・安察使(あぜち)大納言家(藤原資平)・民部卿家(藤原長家)・興福寺東大寺など権門の所領が多くあって、昨年も今年も一勺(※1)の官物(※2)も納める事ができませんでした。そのうえ、伊勢大神宮領や東大寺の玉滝杣(※3)や修理職(※4)の杣などの住人が公田(※5)に入作しながら官物も公事(※6)もつとめないのです。そのため京へ納めるべき物も上納できません】

 つまり、自分の任国には、摂関家を初めとする権門貴族や大寺社権門が所有する荘園が密集して、とても税を徴収できる状況に無いと伊賀守は太政官に泣きついたのである。


 藤原道長の全盛期の政治・社会を知る上で最も重要な資料とされる日記「小右記」において、著者の右大臣藤原実資(さねすけ)は【道長一族の所領は天下に充満して公領(公田)は立錐の余地も無い】と嘆いているが、上記訴状で藤原棟方が挙げた権門貴族6家の内の5家はまさに道長の一族であった。


 もっとも、摂関家院政と共に勢力が衰えてゆくが、寺社所有の荘園は益々増え続け、鎌倉幕府が諸国に命じて国内の田地の面積や領有者などを調査・記録させた大田文(おおたぶみ:土地台帳)によれば、肥前、日向など九州諸国では全面積の50〜60%を寺社領が占める国は珍しくなく、淡路国では寺院領47%で神社領が16%、そして朝廷のお膝元の畿内と近国の寺社領は80〜90%の所もあったとされている。


(※1)一勺:尺貫法における容量の単位。升の100分の1。約0.018ℓ。

(※2)官物(かんもつ):律令制で諸国から政府に納める租税や上納物。

(※3)杣(そま):樹木を植えつけて材木を取る山。またはその材木。

(※4)修理職(しゅりしき):平安時代以降、皇居などの修理・造営を司った令外の官司。

(※5)公田:日本古代の班田法で、位田・職田・口分田などとして与えた残りの田。

(※6)公事(くじ):租・庸・調・課役などの税の総称。


参考資料:「日本の歴史6武士の登場」竹内理三 中公文庫