後白河院と寺社勢力(24)寺社荘園(3)律令国家の崩壊と荘園拡大

 かつて大寺院は「鎮護国家」の祈願を任務とする官営大寺院として繁栄し、経済基盤も国家管理の封戸(※1)で賄われていたが、8世紀頃からは自ら荒地を開墾して寺田を所有するようになったが、それでも基本的には国家の支援で充分賄えていた。

 例えば東大寺は、奈良時代越前国の所領現地に荘所(経営事務所)を設け、そこに倉や屋舎を建てて鋤や鎌などの農具を備えておき、本寺からは田使いを派遣し、付近の農民を雇って耕作させ、収穫した稲をその倉に収納させていたという。


 しかし、9〜10世紀にかけては、律令国家の崩壊と封戸の減少がもたらす国家財政の破綻により、国家の支援が期待できなくなった官営大寺院は、自らの手で経済基盤を構築せざるを得なくなり、大土地所有の荘園開拓と経営に積極的に乗りしてゆくが、他方では、天皇家や台頭しつつある摂関家を初めとする中央政界との関係を密にして、荘園の獲得・拡大に奔走した。

 例えば、966年(康保3年)に天台座主延暦寺のトップ)となった良源は、度重なる大火で焼失した延暦寺堂塔の再興と東塔・西塔・横川を軸に3塔16谷にわたる広大な寺域を構築して中興の祖と称されるが、彼はそのために、時の権力者右大臣藤原師輔の後楯を得て荘園などの寺領を拡大するとともに、師輔の息子尋禅を自分の後任の天台座主に据える事で、当初は藤原家の氏寺である興福寺の末寺であった感神院祇園社を獲得したばかりか、感神院祇園社に連なる膨大な荘園を延暦寺領に取り込んでいる。


(※1)封戸(ふこ、ふご):古代食封(じきふ)の対象となった戸。食封は大宝律令制定以後、皇族や高官等の位階・官職・勲功に応じて支給したが、封戸からの租の半分と庸・調の全部が被給者の収入となった。


参考文献「寺社勢力」 黒田俊雄著 岩波書店