後白河院と寺社勢力(17)成功(※1)というの国守の買官運動

 長和5年(1016)7月20日の深夜藤原道長の住まいである土御門邸が周囲の2百余軒と共に全焼し、その報を聞きつけて公卿を始め諸国からも受領(国守)たちが続々上京して道長を見舞った。


 そして道長は直ちに土御門邸再建の計画を立てて8月19日には普請を開始し、11月には寝殿、対屋(※2)など主だった殿舎が次々と姿をみせ始めていたが、寝殿の造営については新旧受領の中でも富と実行力のある者に柱間一間ずつの造営を割り当てた。


 この道長の振る舞いに対して「一貴族の私邸に受領の富と任国の労働力を提供させるとは」と批判する向きもあったが、「前摂政太政大臣の本邸であるからには、これからも天皇行幸の折には里内裏となり、また、上東門院彰子を始めとする三后道長の娘や東宮の御所となることもあり、単なる私邸の造営には当たらない」と、道長本人とその一族だけでなく、選ばれた国守たちもこれを道長の覚えを目出度くする絶好の機会とばかりに張り切って造営に取組んだといわれている。


 その中でも最も得点を稼いだのは伊予守源頼光とされ、彼は道長の移転の当日、大勢の人夫に新居に必要な調度品や装束の一切を担がせて、沿道の人垣の中を麗々しく行列を組んで運び込み、その献上品の豪華さで世人を驚かせ、常日頃から道長の批判者であった右大臣藤原実資(さねすけ)ですら、鏡・剣・銀器・琴・屏風二十帖・几帳二十基・夏冬の衣装を納めた唐櫃などの献上物の目録を「小右記」に記載している。


 この源頼光は伊予守の前は美濃守を務め、かれの富は諸国の国守を歴任するうちに蓄えられたことは明白であり、当時は地方長官たる国守自体が利権であり、私腹を肥やすまたとない役職であった事が覗えるが、その蓄積した巨富を投入して、派手好みの道長の歓心を買い、見返りに次の有力な国守のポストを期待していたことは疑いないであろう。


 土御門邸新築に際しての道長への成功はこの源頼光だけではなく、備前守藤原景斉が米五百石を、橘為義道長の二条殿に障子を寄進し、さらに道長の日記「御堂関白記」には、諸国の国守から馬・牛・米・絹などの献上がなされた事や、鎮守府将軍(※3)平惟良は馬二十匹・鷲羽・砂金・絹・綿・布など数万の品物を伴って道長邸に参上し、それを見物する人が道路に溢れたと記載されている。 


 当時の中央政界の有力ポストが、三代に亘る天皇の外祖父を背景にした藤原道長の一族に独占される状況にあっては、国守としての立場を利用して飽くなき富の蓄積に励む事がせめてもの人生の選択であったと思われるが、摂関家衰退が進む院政期に入ると、買官・買位階としての成功はさらに激しく、露骨に、頻繁に行われるようになる。


 紫式部を始めとする世界史にも希な絢爛たる後宮文化のパトロン藤原道長の「望月の栄華」の経済基盤は、こうした国守の賄賂が支えた事を教えてくれる点でも歴史は奥が深い。


(※1)成功(じょうごう):資財を朝廷に献じて内裏・御所・寺院・神社の造営や大礼(※4)などの費用を提供したものが任官・叙位されること。買官の一つ。

(※2)対屋(たいのや):寝殿造りで、寝殿に対してその左右や後方に作る別建ての建物。娘・夫人・女房が居住し、廊で寝殿などにつづく。

(※3)鎮守府将軍:古代、蝦夷を鎮撫するために陸奥国に置かれた官庁。

(※4)大礼(たいれい):朝廷の重大な儀式。即位・立后など。


参考文献は以下の通り。

「日本の歴史5王朝の貴族」土田直鎮著 中公文庫

 


「王朝貴族物語」山田博著 講談社現代新書