後白河院の母にして西行の永遠のマドンナ「待賢門院璋子の生涯」

K-sako2007-11-17

 「待賢門院璋子の生涯」を読むきっかけとなったのは、最近めっきり後白河院探索に没頭している私の「あの保元の乱で、兄弟である崇徳上皇後白河天皇が敵味方で争った要因に、崇徳上皇の父親が二人の生母待賢門院の夫である鳥羽法皇ではなく、鳥羽法皇の祖父白河法皇であったと言われているようですが」との問いに、隠者文学・女房文学に造詣の深い元同僚が、「その事は『椒庭秘抄』で著者であり当時の平安博物館長であった角田文衛氏が、苦労してオギノ式を使って証明していますよ」と示唆してくれ、さらに「待賢門院璋子は西行の永遠のマドンナだったようですよ」とのコメントで、早速神保町を徘徊して「椒庭秘抄」(朝日新聞社刊)を手に入れたからである。

最高権力者を虜にした気丈な女性

 璋子(待賢門院璋子)は、本来は女御とか女院の称号を与えられる摂関家の出身ではないが、乳飲み子の頃から、時の最高権力者白河法皇の寵愛する祇園女御の養女として女御の御殿で育てられ、余りにも利発で可愛かったのか、白河法皇が自ら懐の中であやし、添寝して育てたのであった。法皇の璋子への没頭ぶりは、我が子にも見せなかったほど異常であったといわれる。その法皇も、初めは、祖父あるいは父親の気持ちであったのが、璋子が美しく成長するに従い、御所や公卿の間は公然の秘密となる程に、男女間の関係に発展している。

 そして、自分の死後に、有力な背景を持たない璋子の将来を案じた白河法皇は、事もあろうに孫の鳥羽天皇の妃に璋子を入内させるのである。そして、入内させた後も、公然と璋子との男女関係を続け、著者は苦心のオギノ式を駆使して、表向き鳥羽天皇の長男とされている崇徳天皇が、実は白河法皇の息子である事を証明している。つまり、鳥羽天皇崇徳天皇を「叔父子」として疎んじたのは無理からぬ事でもあったのだ。

 また、璋子は気丈で、少子化の現代では賞賛すべき多産のタフな女性で、自分の産んだ子供の臍の緒をさっさと自分で切り、窒息しないように胎児の口の中も自ら綺麗にしたと、著者は璋子に愛情を込めて描写している。

西行の永遠のマドンナ

 権勢を誇った待賢門院璋子も、白河法皇という重石が取れて自由になった鳥羽上皇が、美福門院得子を寵愛し、二人の間の息子近衛天皇が誕生するに至って、衰運に向かい、出家の後に病の中で、久安元年(1145年)8月に45歳の生涯を閉じるのであるが、最愛の息子崇徳上皇後白河天皇の争いを見る前に崩御したことは何よりの幸いだったといわれている。

 庵を結んだ小倉山や嵯峨が、出家後の待賢門院璋子の居所であった法金剛院とは近かった事もあり、和歌の才能を集めた璋子の後宮女房達と交流があった西行法師は、女院の衰運に最も心を痛めた一人と著者は述べ、西行女院に関りのある高級貴族達に自筆の写経を寄進させて、女院の出家後に結縁経を勧進した事を挙げている。

 また、西行法師が久安二年(1146)の冬から都を離れ、畿内各地を巡歴した後、陸奥に向い、その後平泉の藤原秀衡の許で久安三年の冬を過ごして、久安四年の冬頃に都に戻ったのは、待賢門院璋子の崩御が動機であり、西行法師が女院崩御に最も悲傷した人の一人であったと記述している。

著者の待賢門院璋子によせる愛情

 この本の魅力は璋子の魅力もさりながら、今の道徳観念で判断すると恥知らずとも思える大胆な待賢門院璋子と、穏やかさでそういう璋子を愛情深く包んだ夫の鳥羽天皇を描く著者の暖かい心情である。

 ふと、手持ちの「国文学」昭和51年6月号に目をやると、著者角田文衛氏が作家の中村真一郎氏との対談で、

「待賢門院が白河法皇との間に崇徳天皇を生むんですが、鳥羽天皇とも平気でやる。三人で熊野詣に4回も行っているでしょう。それで調和しているんですからね。そういうのが平安時代なんですな。何しろ皆、仲がよいんですから。熊野などへ行くと、待賢門院を中にして三人で寝るんです。そういうのを、近代的なモラルで批判してほしくないですな」と、きっぱり、言い切っている。

写真は出家後の待賢門院璋子画像(「椒庭秘抄」朝日新聞社刊)より。