藤原定長が出家をして寂蓮と称したのは34才の承安2年(1172)頃とされるが、それに先立つ承安元年2月15日に嵯峨の釈迦堂(清涼寺)を詣でた折に、彼の出家の戒師を務めたとされる静蓮(※1)に出家を約した折りに交わした贈答歌が『寂蓮集』に収められている。
基の又の年の二月十五夜、嵯峨に詣でて出家すべきよし、入道静蓮に契りて相侍ちける程に、さてもいかが思ひなりたると、とひにつかはしたりければ
【現代語訳:承安元年の2月15日の夜(釈迦入滅の日)、嵯峨の釈迦堂に詣でて出家する積もりでいることを、入道静蓮と約束して互いに待っている頃に、ところであの時の約束をどうお思いになっているのかと、尋ね遣わしてきたので】
忘るなよ鷲のみ山に隠れにし其の夜の月の影を恋ひつつ
【現代語訳:出家の約束をしたことを忘れないでくれよ、霊鷲山(釈迦が法華経を説いたという)に隠れてしまったその十五夜の月の光を思い慕ひながら】
返し 静蓮
常にすむ鷲の御山の月影をわすれじとこそ世をば出でしか
【現代語訳:永久に澄んでいる霊鷲山の月の光に約束したことを決して忘れまいとして出家したことよ】
また、出家時には、寂蓮は為業(寂然)、藤原実定(※2)、小侍従(※3)と次のような贈答歌を交わしている。
為業入道のもとより
暮れぬとて君がいそぎし月影を なほ我が宿に有明の空
【現代語訳:夕暮れになるといってあなたが用意して待っていた月の光は、依然として夜が明けかけても我が家の空に出ていることよ】
返し
あかざりし名残りの空をおもふには まだ出でやらじ山のはの月
【現代語訳:見飽きていない夜明けの空を思ってみたならば まだ山の端の月はでていないことよ】
世を遁れぬと聞きて左大将実定のもとより
【現代語訳:私が俗世間を遁れると聞いて左大将実定のところから】
世の中を出でぬとなどか告げざりし おくれじと思う心あるものを
【現代語訳:俗世間を遁れようとしていたのをどうして知らせてくれなかったのだ あなたに遅れまいと思う気持ちがあるのに】
返し
人をさへ導く程の身なりせば 世をいでぬとは告げもしてまし
【現代語訳:あなたは私と違って世間の人を指導する身分のある人なので 私が出家することをお知らせしなかったのですよ】
寂蓮と同い年の従兄弟に当たる実定は名門に生まれながらもこの頃は不遇であった。
同じ頃小侍従がもとより
【現代語訳:同じ頃に私が出家することを聞いた小侍従のところから】
したひみん 同じき和歌の浦千鳥 思ひ入りける末たがはずは
【現代語訳:同じ和歌の道で親しく交わった私たちです。もしも貴方の目指す仏道の行く末に誤りが無ければ、いずれは私も跡を追い慕うことでしよう】
返し
和歌の浦に入りにし道を尋ねこば いと心あるあまとこそみめ
【現代語訳:共に和歌の道に入ったように あなたも仏道を尋ねくるようでしたら、大層思慮深い海人(尼)と思うことでしよう】
静蓮(※1):生没年未詳。法師俗名重茂、治部丞頼綱子。(『勅撰作者部類』による)。西行・教長・寂然・清輔等と交わした贈答歌がそれぞれの家集に収められている。
(※2)藤原実定:平安時代後期の歌人。大炊御門右大臣公能の一男。保延5年(1139)〜建久2年(1191)、享年53才。応保2年(1162)24才で従二位、長寛2年(1164)権大納言、永万元年(1165)辞任、それ以降治承元年(1177)39才で右大将に還元するまで不遇をかこつ。後徳大寺左大臣とも呼ばれ、『平家物語』、『徒然草』に逸話が残る。『千載和歌集』以下の勅撰集に73首入集、『百人一首』にも入集。
(※3) 小侍従:平安時代末期の女流歌人。生没年未詳。石清水八幡宮別当紀光清の女。母は花園左大臣家女房小大進。応保元年(1161)頃二条天皇に出仕、永万2年(1166)の天皇崩御後は太皇太后宮多子に仕え、更に後高倉院に出仕するが治承元年(1179)に出家。『新古今和歌集 恋三』に収められた「待つ宵にふけゆく鐘の声きけば・・・」の歌から「宵待の小侍従」と称された。長い間俊恵の主唱する歌林苑の会衆でもあり、『千載和歌集』以下の勅撰集に43首入集。
参考文献:『日本の作家100人〜人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版