寂蓮の出家の背景については、養父藤原俊成が49歳の時に誕生した定家に歌道を継ぐに相応しい才能を見極めて自ら身を引いたとの理由が一般的であるが、それはそれとして、私は当時が日本史上希に見る「出家・遁世の時代」であったことを挙げたい。
寂蓮が保延5年(1139)に醍醐寺阿闍梨俊海を父として生まれたことは既に述べたが、俊海の父で寂蓮には祖父にあたる従二位・権中納言藤原俊忠は、法成寺関白道長公六男権大納言長家を祖父とする端も羨む公卿(※)であった。
しかるに、従二位中納言俊忠は17人の息子を得ながら、そのうちの寂蓮の父俊海を含む13人は権門寺院で僧侶としてしかるべき地位を得ており、さらに、寂蓮の息子4人のうち、若狭守まで昇りながら武士の妻を犯してその夫に惨殺された長男を除いた3人が僧侶となっているに留まらず、天才定家を得て歌道の御子左家を確立した藤原俊成にも園城寺権大僧都、延暦寺権律師など僧籍の息子が居たことが伝えられている(下図参照)。
そして、このことは、祖父俊忠の一族だけではなく、皇室・摂関家並びに下級貴族に亘る当時の一般的な光景であった。
寂蓮が生きたのは、崇徳・近衛・後白河・二条・六条・高倉の諸帝がめまぐるしく入れ替わった時代で、その背景には、それまで公卿から相手にもされなかった国守(受領)が地方支配で蓄えた財力を元手に「成功(じょうごう)」という名の買官(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20100124)で上皇に取り入って中央政治の舞台に登場して公卿を追い落とし、さらに皇室・摂関家・源平両氏の対立が絡んで保元(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20090223)・平治の乱を勃発させ、気が付けば平氏の専横に翻弄される朝廷と、事態の収拾を図ること無く手を拱いているだけの公卿の姿が残ったのである。
もはや公卿にとっては長子に家督を継がせるだけが精々で、2男、3男以下の男子を官位に付かせるだけの政治力も財力も無く、まだ家の威光と財力を恃める才気ある者は次々に俗世に見切りをつけて、権門寺院の僧侶としての出世を求めたのであった。
(※)公卿(くぎょう):公(太政大臣および左・右大臣)と卿(大・中納言、参議及び三位以上の朝官)との併称。
参考文献:『日本歌人講座第三巻 中世の歌人』 文学博士久松潜一 文学博士實方清編 弘文堂
『日本の作家100人〜人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版