新古今の周辺(66)寂蓮(13)出家後の歌合(前)

寂蓮は出家直後から福原遷都の前後の頃までは柿本人麻呂墓所など都の周辺の和歌に関わる遺跡や歌枕の名所巡り、建久1年から2年にかけては出雲大社東下りなど漂泊の旅を通して歌作りに磨きをかけていたようだが、他方で「歌合」にも連なり、特に晩年は積極的に歌合で出詠するなかで歌壇での名声を高めていった。

そこで、ここでは出家後の寂蓮の「歌合」の足跡をたどることにして、先ずは出家直後から福原遷都の頃までに出詠した「歌合」の中から『別雷社歌合』と『右大臣家歌合』を採りあげたい。

『別雷社歌合』は治承2年(1178)3月15日に俊恵が主唱する歌林苑のパトロンでもあった加茂重保が賀茂別雷神社上賀茂神社)の社頭で催したもので、この時40歳であった寂蓮は初めて「僧寂蓮」を名乗っている。

この歌合の出詠歌人は六十人、判者は藤原俊成、歌題は「霞」「花」「述懐」の三題で各歌題について三首を出詠するもので、寂蓮は平忠度(※)と競って、勝1、持(引分)2の成績であった。

その中から、寂蓮が出家の真情を吐露したと思われる歌題「述懐」の一つを採りあげたい。

  18番左  持(引分)   忠度
ひたすらに祈るにあらず恨みかねそむきはつべきよともしらせよ
【現代語訳:いちずに神仏に祈願することではないよ 恨みもできずに俗世を捨てて出家するときと知るべきよ】

    右           寂蓮
世の中のうきは今こそうれしけれ思ひしらずばいとはざらまし
【現代語訳:この世の憂き事を知ったのは今となっては嬉しいことだったのか。もしこの憂き事を知らずにいたなら、俗世を厭って出家したであろうか、いや、しなかったであろう】

    判詞         俊成
左の歌の心ざしいとよろしくみえ侍り、右もことなるよせありてはみえ侍らねど、歌姿、文字つづき いうに侍るなるべし、仍って持(引分)とすべし。

『右大臣家歌合』治承3年(1179)10月18日
寂蓮が41歳で連なったこの歌合は当時の右大臣九条兼実邸で催されたもので、歌人は二十名、歌題は十題で三十番、判者は藤原俊成であった。

この歌合での寂蓮は「霞」「花」「雪」の三歌題に出詠して、仲綱、顕昭、大弐入道重家と競い、勝2、持(引分)1の成績であった。ここでは、「雪」の歌題で後に『新古今和歌集』に入集した「雪のゆふぐれ」の歌を採りあげたい。

    17番 左  勝     寂蓮
ふりそむる けさだに人のまたれつる みやまの里の雪のゆふぐれ
【現代語訳:雪の降りはじめた今朝でさえも、人の訪れてくるのが心待ちされるたのに、この奥深い里のいっそう人恋しい、雪の降り積もっている寂しい夕暮れよ】

       右       重家
旅人は はれまなしやとおもふらん たかきのやまの 雪のあけぼの
【現代語訳:旅人は雪の晴れ間がないと思っているのであろう。高城の山の雪の降り積もった夜明け方の空よ】

     判詞       俊成
みやまのさとの雪は、今朝だに人の、などいへる心よろしく侍るにや、たかきのやまの雪は歌のたけありて優に侍るべし、此たかきの山も芳野の山にこそ侍れ、旅人などのつねにすぐる事はいとなくや侍らむと覚え侍るうへに、雪の夕ぐれ、すこしさびておもひやられ侍れば、又左のかたへつき侍らむ

ところで、寂蓮のこの「雪のゆふぐれ」の歌は、これも『新古今和歌集』に入集して定家の代表作の一つと称される「駒とめて袖うちはらふかげもなし さののわたりの雪のゆふぐれ」を始め、新古今歌壇に大きな影響を与えたとされている。

(※)平忠度(たいらのただのり):平安末期の武将。忠盛の息子で清盛の弟。和歌をよくし、平家西走の途中京に引き返し、和歌の師藤原俊成に歌集一巻を託し一ノ谷戦で戦死。

参考文献:『日本の作家100人〜人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版