藤原定長が出家して寂蓮と称するのは彼が34才の承安2年(1172)頃とされているが、その頃の花壇で中心的な役割を果たしていたのは『詞華集』(※1)を撰進した藤原顕輔やその息子の清輔・重家・顕昭・李経などの六条藤家(※2)であり、後に日に彼らを凌駕する御子左家の藤原俊成はまだ花壇の権威としての地歩を築くに至っていないが、「重家家歌合」「住吉社歌合」「建春門院北面歌合」「広田社歌合」など主要な歌合で判者を務めそれなりの存在感を発揮していた。
定長が御子左家の歌道の後継者を期待されて藤原俊成の養子となったのはまさにそんな時代で有り、彼はその期待に応えるべく日頃から研鑽を積み、様々な歌合や歌会に積極的に出詠していた。
ここで、定長が出家する直前の承安2年(1172)に詠まれたとされる、定長・殷富門院大輔(※3)・隆信の間で交わされた贈答歌を『殷富門院大輔集』から引用して当時の彼の心境を推し量りたい。
9月つごもりに、ひとびと秋のわかれをしむうたどもよまれしついでに
ゆく秋のわかれはいつもあるものを けふはじめたる心ちのみする
【現代語訳:去って行く秋との別れは毎年あるものを、今日初めてのような気持ちばかりすることよ】
かくてものがたりなどしくらして、かへられしに
たづねくるかひこそなけれゆく秋の わかれにそへてかへるけしきは
【現代語訳:訪れて下さった価値がないことよ。去って行く秋との別れに加えて、帰って行く様子は】
かへし 右京権太夫たかのぶ
ゆく秋のわかれにそへてかへらずは なにゆゑきみがをしむべき身ぞ
【現代語訳:去って行く秋との別れと共に帰らなかったら、どうしてあなたが惜しんでくれる我が身であろうか】
又 なかつかさのせうさだなが
かぎりあらむ 秋こそあらめ我をだに まてしばしともいはばこそあらめ
【現代語訳:秋には終わりがあるから良いのであろう。私にもうしばらく待ってほしいとのことであれば結構であるが、そうでなければ秋と共に帰ることよ】
この頃の定長・隆信・殷富門院大輔は、俊恵が白河の僧坊で保元頃から寿永年間の20数年に亘って催した「歌林苑」の会衆として、月次・人麿影供などの歌会や歌合、会衆の送別歌会などを通して長い親交を結んだ歌仲間であった。
まさに、この贈答歌の頃の定長と信隆が、鴨長明が『無名抄』「64 隆信・定長一双のこと』で述べた二人の力が伯仲した時期に該当するのであろうか(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20150501)。
もっとも『無名抄』を書いた長明はこの頃17才位で、前年に下賀茂社禰宜を務めていた父を失うと共に後継者の立場も失って失意のどん底にあり、歌林苑の会衆となって俊恵や寂蓮に育てられるのはもっと後のことになる。
(※1)『詞華集』:勅撰和歌集。八代集の一つ。10巻。天養元年(1144)藤原顕輔が崇徳上皇の院宣を受けて奏上。
(※2)六条藤家:藤原顕季を祖とし、顕輔・清輔・重家・顕昭・李経・保季・有家等の歌人を輩出。経信→俊頼→俊恵を六条源家と称するのに対し、六条藤家と呼ばれる。
(※3)殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ):平安時代末期から鎌倉時代初期の女流歌人。生没年未詳。父は藤原信成。共に歌林苑の会衆だった小侍従は母方の従姉妹。後白河皇女の殷富門院亮子内親王(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20090602)に仕えた。『千載和歌集』以降の勅撰集に63首入集。
参考文献:『国文学』昭和40年10月号、平成2年12月号
『日本の作家100人〜人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版