新古今の周辺(16)鴨長明(16)隆信(2)燦然と輝く「伝源頼朝

神護寺略記』によると、京都神護寺が所蔵し国宝に指定されている三幅の似絵(肖像画)「伝源頼朝像、伝平重盛像、伝藤原光能像」の作者は「藤原隆信―筆也」と記され、その中でも「伝源頼朝像」は世界に現存する肖像画の中でも1、2を競う名作とされているだけでなく、「伝平重盛像」も屈指との高い評価を得ている。


(上図は「伝源頼朝像 神護寺所蔵」『頼朝の天下草創』 山本幸司 講談社より)

この肖像画の由来は、後白河法皇神護寺御幸に先立つ2年前の文治4年(1188)に寺内に建てた仙洞院の室内に、建久3年(1192)の法皇崩御の後に掲げられたのが隆信の似絵(肖像画)であった。

当初の肖像画は、中央に後白河法皇像、法皇に対して左右に源頼朝像と平重盛像、下座に法皇近臣の平業房像と藤原光能像がいずれも法皇に視線を向けてお仕えする姿が描かれていたが、その後に、法皇像は室町時代の写しのみとなり、平業房像は現存せず三像のみが保存された。(http://www.jingoji.or.jp/treasure16.html 神護寺略記)。

当時、迫真の技を有して似絵の第一人者と謳われていた藤原隆信は、生母が美福門院加賀であったことから後白河法皇の近臣として仕えており、その腕を買われて法皇の命により描いたものであろう。

さらに後白河法皇と隆信の結びつきを伝えるものとして、知恩院所蔵の「法然上人絵伝」に法皇御所の法住寺殿で隆信が法然上人像を描いている場面が描かれている。(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20090904


(上図は『法然上人絵伝 中』中央公論社より)


(上図は『図解雑学 法然』ナツメ社より)

その肖像画は「隆信の御影」として知恩院に現存し、今でも「総本山知恩院」の公式サイトで観る事が出来る。
http://www.chion-in.or.jp/01_honen/index.html

ところで話しはそれだけでは終わらない。大阪・水無瀬神宮所蔵の「国宝 後鳥羽天皇像」(下図)は隆信の息子・信実(のぶざね)の筆とされ、承久の変に破れて隠岐へ配流と決まった後鳥羽院が、その直前に出家剃髪するに当たり落飾前の姿を信頼の篤かった信実を召して写させたものである。

「信実は面貌の描写に堪能であったとされる藤原隆信の息子で、父と同様に宮廷の職を勤める傍ら似絵にも携わり特に人物の「真影」に長じていたことが『明月記』などにより知られる」と『特別展 美麗 院政期の絵画』図録は「後鳥羽天皇像」の作品解説で述べている。

私は、『明月記』の著者定家と隆信は共に生母が美福門院加賀であった関係から、定家は異父兄の消息に明るかったと推測する。

そして、定家が「歌の家」の確立に情熱を燃やしたように、隆信は「似絵の家」の確立をめざし親子二代で燦然と輝く肖像画を後世に残して、21世紀の私たちの院政期時代の理解に大きく貢献した。

その大きな足跡を思えば、若い時は歌の名手ともてはやされながら、年を経て後鳥羽院歌壇の面々からボロボロに批判され「歌の盛りに死んでいれば歌人としての名を残せたものを、徒に長生きしたためにむざむざ名を落してしまった」と隆信が嘆くに及ばないのである。

参考文献: 『特別展 美麗 院政期の絵画』図録の『後鳥羽天皇像』

      『無名抄 現代語訳付き』久保田淳 訳注 角川文庫