後白河院と平家の女(2)丹後局(中の1)後鳥羽天皇践祚に介入

寿永二年(1183)平家は三種の神器と共に安徳天皇を具して西走した。平宗盛から同行を仄めかされていた後白河院は夜陰に乗じて辛くも延暦寺に逃げ切ったが、朝廷での天皇不在を苦慮して重鎮を招致して対応を協議した。


その結果、故高倉上皇の三宮・守貞親王と四宮・尊成親王後鳥羽天皇)が新帝候補に上り神祇官の卜筮で三宮に決まりかけたのだが、丹後局が「人見知りをしない四宮の方が天皇の器にふさわしい」と異を唱え、さらに、京を制圧していた木曽義仲後白河院の皇子・故以仁王の若宮を推して事態は紛糾し、再度の卜筮で四宮と結果が出て、ここに数え年4歳の後鳥羽天皇践祚することになる。


高倉院と後鳥羽院親子(「図版天子摂関御影」より)


後鳥羽天皇践祚の経緯については、「後白河院が二人の若宮を面接したところ、兄君の三宮はもじもじして顔も上げられなかったのに対して、弟君の四の宮は院の膝に這い上がり可愛い顔を上向けて『おじいちゃん』と言った事が決め手になった」との逸話も広く伝わっているが、いずれにしても、丹後局が単なる後白河院の寵姫だけでなく、天皇人事にも介入できるだけの権限を与えられていたことを示している。


さらに、丹後局の介入を思うとき、新古今和歌集の編纂を始め、歌の家を自認するいわばプロの歌詠みの藤原定家にも勝る評価を獲得し、今なお燦然と輝く歌人後鳥羽院の業績を思うとき、丹後局の慧眼には敬服する他はない。


それにしても、天皇不在という朝廷の一大危機にあって、卜筮という偶発性の結果に何の疑問も無く従う重鎮の事なかれ主義に対して、功利の動機からであっても、朝廷の将来を憂えてキッパリと異を唱えた丹後局の何と格好よいことか。