新古今の周辺(77)寂蓮(24)和歌所(1)『和歌所影供歌合』

後鳥羽院は『新古今和歌集』撰集のために建仁元年(1201)7月27日に二条殿に広御所に和歌所を設置し、さらに同年11月3に勅撰の宣旨を下して和歌所寄人の中から6人の撰者を選び、その中の一人に寂連は選ばれたが、それからわずか1年後の建仁2年7月中頃に入滅したため選者としての任務は果たせなかった。

しかし短いながらも、この期間は寂連にとっては歌合・歌会などに積極的に出詠して歌人としての名声と存在感を固める充実した時期であったといえる。

ここでは後鳥羽院が和歌所を設置した直後に初めて同所で催した『和歌所影供歌合』を採りあげたい。この歌合は8月3日に披講されたもので、歌題は初秋暁露・関路秋風・旅月聞鹿・故郷虫・初恋・久恋の6題、歌人は36人、各題18番、計108番。判者は釈阿(俊成)で、判者の歌は衆議判、勝負付はされたが判詞は記されていない。

この歌合で目覚ましい成績を収めたのは後鳥羽院・良経・内大臣通親・慈円・釈阿、それに対して不振な成績だったのは定家・雅経・有家・讃岐そして寂蓮で、釈阿を除いて権門対ヒラあるいは地下というあからさまな結果であった。

ここでの寂蓮の詠歌は各題6首で通親と番えて持1、負4、無判1のまことに不面目な成績であったが、その中から「関路秋風」の歌を採りあげたい。

    三番    左勝            内大臣(通親)
  風の音やみにしむばかり聞ゆらん心づくしのもじの関もり
【現代語訳:秋風の音が身に強く感じられるほどに聞こえてくるよ、あれこれと深く気をもんでいるであろう門司の関守よ】

    右                   寂蓮
  春やまたあふ坂こえん秋風にけふ立ちかへるしら川の関
【現代語訳:春には再び逢坂の関を越えてくることであろう。秋風が吹き、今日昔にかえる白川の関守よ】

内大臣通親の「もじの関もり」歌の「門司関」は筑紫の国の歌枕で、福岡県北九州市門司区関門海峡の早鞆の瀬戸に設置された関所で、「筑紫(つくし)」の地名と「心づくし」を掛詞として詠んでいる。
対する寂蓮の「春やまた」の歌は、『後拾遺和歌集』に入集している能因法師の次の歌の影響を受けているとみられ、逢坂の関(滋賀県大津市に設置されていた)と白河の関福島県白河市に設置されていた)を詠んでいる。

  みちのくににまかりくだりけるに、しらかはのせきにてよみはべりける
【現代語訳:陸奥国に下向しました時に、白河の関で詠みました。】

みやこをばかすみとともにたちしかど秋風ぞふくしらかはのせき
【現代語訳:都を春霞が立つと同時に出発したが、白河の関に着く頃には秋風が吹いていたよ。】

参考文献:『日本の作家100人〜人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版