寂連の入滅した日は明確ではないが、彼が出詠した最後の歌合は、後鳥羽院が建仁2年(1202)5月26日に主催した『仙洞影供歌合』とされる。
(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20180715)
そしてその1ヶ月後の6月29日の藤原定家の『明月記』では、
〔廿日、天陰、炎暑之間衆病競起甚無術、午時許少輔入道来、相乗参入道殿、申時許還、於途中遇大雨入還、即帰了〕
と、炎暑続きの日々であちこちで病気が流行っているなかで寂連が定家を訪れ、車に相乗りして俊成邸を訪問し、帰路に大雨に遭遇したがその中を帰り着いたと記しているが、寂蓮の健康状態については何も触れていない。
ところがその1ヶ月後の7月20日の『明月記』では、
〔廿日、天晴、午時許参上、左中弁云、少輔入道逝去之由〕
と、定家が正午頃に院御所に参上した時、左中弁・藤原良房から寂連の逝去を知らされたと記しており、この記述が寂蓮の入滅を7月20日以前とみなす根拠の一つとなっている。
そして、次には、寂蓮を突然に失った定家の慟哭が赤裸々に吐露されている。
〔浮世無常雖不可驚、今聞之、哀慟之思難禁、自幼少之昔、久相馴巳及数十廻、凡於和歌道者、傍輩誰人乎、巳以奇異逸物也、今巳帰泉、為道可恨、於身可悲〕
【現代語訳:無常のこの世であれば驚くべきではないとはいえ、たった今少輔入道の死を聞かされて嘆き悲しむ思いを留めることができない。
幼少の昔より長く馴れ親しんで数十年になる。総じて和歌の道において少輔入道をおいて一体誰が肩を並べようか。
早くから普通の人とは異なり類のない優れた歌人であった。その少輔入道は、今、まさしく黄泉の国に向かった。和歌の道のためには恨めしいことである。我が身においても悲しいことである】と。
寂連は後鳥羽院に望まれて『新古今和歌集』撰集の為の寄人となり、さらに選者の一人に選ばれていたが、心ならずもその完成を目にすることなく入滅した。
後鳥羽院の近臣で和歌所の開闔(書記)を務めた源家長は、急な病で『新古今和歌集』の完成を見ることなく志半ばでこの世を去らざるを得なかった寂蓮の無念さを思いやると共に、歌人としての寂蓮に大きな期待を抱いていた後鳥羽院の半端ではない嘆き、そして深い結びつきを重ねてきた和歌所の寄人たちの喪失感を『源家長日記』に次のように記している。
〔心もとなく、いかほどかあつめよせつらんなどと思ひし程に、としもかはりてそのとしの秋比寂連入道わづらひて、つひにはかなくなりはべりにき。よのならひながら、をりしもこそあれ、かかる勅をうけ給ふ、此事をとげずしてうせぬる事、いかばかりのこと思ひけん。君も御なげきあさからぬ御気色也。まいて此道をたしなみ心をそめたる人々のなげきあへるけしきもいへばおろかなり。中にも和歌所のより人たちは、身のうへのなげきとのみ、涙も更にふししづみなげきあへり(後略)〕
ところで、寂連の突然の死に対する後鳥羽院を始めとする和歌拠所の人々の嘆きの深さは、前年の式子内親王の逝去に次ぐ和歌における大きな存在が失われることで、和歌の道が衰えてゆく事への危機感からも生じていたようである。
参考文献:『日本の作家100人〜人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版