新古今の周辺(69)寂蓮(16)仙洞歌壇(1)『老若五十首歌合』

そうこうするうちに、正治2年(1200)7月、後鳥羽院より「正治2年院初度百首」への詠進の沙汰があり、寂蓮は8月の終りに百首歌を提出、さらに閏10月に『仙洞(※1)10人歌合』に出詠、相次ぐ10月の『院当座五首歌合』では定家と共に判者を勤め、これ以降は仙洞歌壇の中心的な役割を担って行く。

ここでは、事実上後鳥羽院が初めて主催した歌合とされる『老若五十首歌合』から、当時の新古今歌壇の特質が窺われる「本歌取」と「主ある詞」に焦点を当てた寂蓮の歌を採りあげてみたい。

後鳥羽院御集』の記すところでは『老若五十首歌合』の成立は「建仁元年二月老若五十首御歌合十六・十八両日有評定被付勝負」となっていることから、建仁元年(1201)12月12日前後に奏覧して、16日、18日に評定して勝負が付されたとみられる。

また、競い方は、年齢によって左方を「老」として、忠良・慈円・定家・家隆・寂蓮、対する「若」の右方は後鳥羽院・良経・宮内卿・越前・雅経の10名の歌人が、春・夏・秋・冬・雑の五つの歌題を各題につき10首、計500首を250番の歌合で競うもので、勝負はつけるが判詞は記されていないので審議制によったものであろうとみられている。

先ずは宮内卿と競って持(引分け)となった春の45番から。

くれてゆく春のみなとはしらねども霞におつる宇治の柴舟

【現代語訳:終わろうとする春という季節の行き着く所はどこか知らないけれども宇治川の柴舟が夕霞の中を落ちるように下って行く、あの方角がその行き着く港なのであろう】

上記の寂蓮の歌は「暮春・三月尽」を歌題としたもので、『古今和歌集』(巻五、秋下311)に入集している紀貫之の次の歌を本歌として詠んでいる。

  秋のはつる心を たつた河に思ひやりて よめる  つらゆき
年ごとにもみじばながす龍田河 みなとや秋のとまりなるらむ

【現代語訳:秋が終わって行くという趣を竜田川の情景を想像して詠んでみる
まいとしのことではあるが、今年も竜田川は美しい紅葉の落葉を浮かべて流れているよ。この落葉が流れ着くところが秋の行き着く港であろうか】

寂蓮の「くれてゆく春のみなと」の歌は紀貫之の「年ごとにもみじばながす」の歌の秋のとまり龍田河春のみなと宇治(川)に詠みかえているのである。

さらに、寂蓮の歌の霞におつるの句は、後に藤原為家(※2)の歌論書『詠歌一体』では「一、歌の詞事、霞におつる」として挙げ、「主ある詞(※3)」として記されている。

(※1)仙洞(せんとう):上皇の御所を仙洞あるいは仙洞御所と称した。

(※2)藤原為家(ふじわらのためいえ):藤原定家の二男。『続(しょく)後撰和歌集』『続古今和歌集』の撰者。正夫人との間に為氏、為教をもうけたが、後に阿仏尼となる後妻に為相が生まれたために遺産争いになった話は『十六夜日記』で知られる。歌論書『詠歌一体(えいがいってい』。『新勅撰和歌集』以降の勅撰集に三百三十二首入集。

(※3) 主ある詞:他人が模倣してはならない独創的な秀句表現。

参考文献:『日本の作家100人〜人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版