鴨長明は藤原定家の「本歌取」に対する姿勢を『無名抄』で次のように記している。
74 新古の歌 2
後鳥羽院御所における歌合(※1)で藤原隆実(※2)が
今来むと 妻や契りし長月の 有明の月に 牡鹿鳴くなり
【現代語訳:すぐ行くよと 妻の鹿が約束したのであろうか 9月の有明の月の下で
牡鹿の悲しげに鳴く声が聞こえる】
と詠んだ時、判者の藤原俊成は「右(隆実)の歌は『いひしばかりに』の歌とほとんど同じ様を詠っているが『ことがらやさし』」と、勝の判定を下した。ところが、同座していた藤原定家は即座に
「かの素性(※3)の歌にわずかに2句しか変えていない。こんなに多く似ている歌は、その句を置きかえて、上の句を下に移すなど工夫をして作り改めた方がいいのではないか。これでは、単に、元の置き場所に、胸句と結句を変えているだけと批判するしかない」
と、難じたのである。
因みに、藤原隆実が「本歌取」をしたのは素性が詠んだ次の歌であった。
今来むと いひしばかりに長月の 有明の月を待ちいでつるかな
【現代語訳:すぐに行くよと恋人が言ったばかりに待っていて
とうとう9月の 有明の月がでたよ それなのにあの人はこない】
定家が隆実の「本歌取」の作品を非難した論拠は、歌論書『毎月抄(※4)』に以下のように記されている。
「本哥の詞をあまり多く取ることはあるまじきにて候。そのようは、栓とおぼゆる詞ばかりとりて、今の哥の上下に分かちおくべきにや」と。
さらには「又、あまりにかすかにとりて、その哥にてよめるよとも見えざらんは、何の栓か侍るべきなれば、よろしくこれらは心得てとるべきにこそ」と、本歌をとっているのかいないのかはっきりしないような目立たない取り方は、本歌をとった甲斐もないのであるから、この点は心して取るようにとの指摘もしている。興味深いのは、この指摘が、源融の本歌から「夏か秋か、問へど白玉岩根より はなれて落つる 滝川の水」と詠んだ定家自身の歌に対する長明の批判にも通じる論点でもある(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20160815)。
(※1)後鳥羽院御所における歌合:正治2年(1209)9月30日に後鳥羽院の御所で催された歌合。作者は後鳥羽院、源通親他16名、判者は藤原俊成。
(※2)藤原隆実:国宝≪伝源頼朝像≫で知られる宮廷画家の藤原隆信の息子。後に信実と改名。彼自身も似絵に優れ≪随身庭騎絵巻≫≪三十六歌仙絵巻(佐竹本)≫の作者とされる。定家の甥。
(※3)素性(そせい):素性法師・平安時代前期の歌人。僧正遍照の息子。三十六歌仙の一人。『古今和歌集』の代表的歌人。家集『素性集』
(※4)毎月抄(まいげつしょう):藤原定家の消息体歌論書。一冊。承久元年(1219)の作と伝える。有心体(うしんてい)の重視を述べている。『定家卿消息』『和歌庭訓』とも呼ばれる。
参考文献: 『無名抄 現代語訳付き』久保田淳 訳注 角川文庫