後白河院と寺社勢力(33)経済を支える悪僧・神人(3)訴訟介入2

  後白河院その人と彼の生きた時代を掘り下げてゆくうちに、「院政期とは、土地私有制度確立へと向かう中世のとば口として激しく揺れ動いた時代であり」「土地所有を巡る訴訟の時代でもあった」との認識を強く抱くようになった。 

 
 律令時代の土地は国家に所属し、国は人民に一定面積の耕地を一代限りで割当て、それに祖・庸・調などの物納税と徭役労働を課して巨大な官僚機構を維持していた。つまり、いくら汗水たらして荒地を開墾しても国家に召し上げられるので誰も荒地の開拓などはしない。

 
 その間に人口は増え続け国民を養うのが難しくなったばかりか、巨大な官僚機構を支える事も困難になり、苦肉の策として天平15年(743)に制定したのが、「条件付で開墾地の永久私有を認める」という墾田永年私財法であり、これによって土地私有への道が拓かれ、皇室、権門貴族、大寺社、開発領主による未開地の開墾が盛んになり荘園制へと突入してゆく。

 
 しかし、後三条天皇が延久元年(1069)に荘園整理令を発布して、荘園整理作業を太政官に属する「記録荘園券契所」で一括審査する体制を整えるまでは、荘園認定は国司(国守)に一任されていたから、その時々の領主と国司の力関係によって荘園・公領の線引きがなされるという不透明性が、国司(国守)が交代するたびに線引きの見直しをめぐる荘園領主国司(国守)との対立を引起こした。

 
 ところで、延久の荘園整理令の目的は二つあり、一つは寛徳2年(1045)年以後に新立した荘園の停止であり、二つ目がそれを徹底するために荘園認可の手続きを太政官の管轄に一元化することであった。

 
 その手続きとは、まず記録荘園券契所に属する役人が書面審査を行ない、その結果を後三条天皇に上奏し、天皇招集の公卿議定を経て後三条天皇が裁可し、記録荘園券契所が官符・宣旨を発行して国司(国守)・荘園領主に通達する、という極めて厳しいもので、審査を受けるのは摂関家とて例外ではなかった。

 
 というのは、当時は、既に所有の根拠を示す文書も存在しないのに、摂関家領と称する荘園が諸国に満ち溢れ、「これでは政府への納税職務が果せません」と国司(国守)が朝廷に訴える場面が頻々と生じていたからでもある。

 
 さて、荘園所有の認可は正統性を示す書面による審査を必要とするという新たな事態に直面して、摂関家の長たる藤原頼通はどうしたか。頼通の数代孫に当たり天台座主延暦寺のトップ)を4度務めた慈円の「愚管抄」から、頼通が後三条天皇に応えた言葉を次に引用したい。

【「50年にわたって天皇の後見役を務めてきた間、所領を持っているもの(領主)が摂関家への強い縁故を求めて荘園を寄進してきた。それをそのまま受け取ってきたまでで、どうして証拠文書があるというのか」】

なんともトホホの狼狽が感じられる元関白様のお言葉ではありませんか。

 
 訴訟とは根拠となる文書とそれの当否を決する法と手続きが整備されなくては成り立たない。

 まさに延久の荘園整理令は訴訟整備の第一歩を踏み出したのであり、その後の白河院政期の天永2年(1111)の記録所設置、後白河天皇親政期の保元元年(1156)の記録所設置、そして後白河院政期の文治3年(1187)の記録所設置へと機能整備が進み、かつ、荘園領主と地頭との土地紛争が激化する時代の背景も手伝って、悪僧・神人始めとする土地訴訟介入は都鄙を問わず展開されてゆくのである。


参考文献 「日本中世の歴史2 院政と武士の登場」福島正樹 吉川弘文館