始まりは井上靖の「後白河院」から

K-sako2007-11-11

 福田首相民主党への連立打診で揺れている国会議事堂を尻目に、通りを一つ隔てた国会図書館に三日続けて足を運ぶ事になったのは、平安時代の末期から鎌倉時代の初めに活躍した公卿、吉田経房の日記に眼を通す必要が生じたからです。

 井上靖著「後白河院」は、四人の語り手を通して後白河院の全体像を見事に描き切った傑作と評されていますが、私が30代の終りに始めてこの作品を読んだ時は、「保元の乱に始まる激動期に、清盛も、頼朝も、信西も、建春門院も、この醒めた昏い目の持ち主により滅んだのである」との帯書きの通りに、後白河院の「心の闇」の不気味さばかりが印象に残ったのであった。

 しかし、40代後半に再び読み返して、兄からは「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」、側近からも「和漢に比類なき暗主である」と酷評された暗愚の男が、いかなる状況をくぐり抜けて、昭和の偉大な作家、井上靖の創作意欲を掻き立てるほどの「ひときわ傑出した政治的人間」に到達しえたのか、に、興味を抱くに至った。

 さらに、最近、三度読み返して、作品の最後において、後白河院のなす事に対して一貫して嘲笑的な態度をとり続けたばかりか、源頼朝に期待し、頼朝の推薦で念願の関白職を勤める事になった九条兼実をして、寒い冬の夜、亡き後白河院を偲んで「自分は院の本当の思いを理解していなかったのではないか」と悔恨させる場面は、作者の後白河院観を兼実の口を通して語らせたのではないかと思うに至った。

 そんなわけで、「暗愚の男が如何にして傑出した政治的人間になりえたか」、「九条兼実をして自らの後白河院への態度を悔恨させたのは作者の創作であったか」、湧き上がるこの二つの関心を突き詰める為には、四人の語り手のうち、後白河院の側近として後白河院の心情を知る立場にあった吉田経房と、一貫して後白河院に距離を置いた九条兼実の日記を自分の目で確かめる必要があるとの結論に至ったのである。

 三番目に登場する吉田経房は、源平のいずれか、勝馬に乗ることばかりにとらわれて右往左往する貴族を見限って、「王権」を維持する為にたった一人で闘わざるを得なかった後白河院の姿を、側近として仕えた者の眼で語っているが、彼の書いた日記「吉記」は全て漢文で書かれている上に、現代訳や訓読版は出ておらず、2006年に「新訂吉記」三巻が刊行されているの知り、国会図書館に出向き、最初に二巻目を借りて、三日がかりで何とか目を通した、と、いった状態です。

 一面漢字で覆われているページの上段に、簡単な現代語で書かれたイベント名を手掛りに知りたい箇所を探し、字面でその内容を判断するといったやり方をとるのが私にとって精一杯です。

 一巻9千円もする高価な専門書であれば、赤ペンで書き込む事も、目ぼしい箇所にポストイットを貼り後でじっくり読む事も出来ず(交通費が往復620円)、読みながらノートを取るのは五十肩の治療の身には相当こたえます。

 こんな調子で、「新訂吉記」残り二巻、そして九条兼実の日記「玉葉」は何巻でしようか。自分で背負った課題ですから、納得するまで、国会図書館に足を運ぶ事になりそうです。

 しかし、考えてみれば、応仁の乱=1467年、江戸幕府の開始=1603年、などと学校の授業は暗記ばかりさせられたから歴史嫌いになっていたが、井上靖の「後白河院」に接して、歴史を人間ドラマとして把握することで、歴史に興味を抱くようになったのは幸いといえます。