長治元年(1104)の山上合戦は、権少僧都・貞尋を頭目とする西塔と、後の上座・行算を頭目とする東塔の二つの党派間の抗争であるとともに、この行算には法薬禅師という相棒がいたと前回述べた(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20130328)が、藤原宗忠はその法薬禅師について同年10月7日付の『中右記』で「叡山の衆中に法薬禅師なる者がいる。東塔の大衆はくだんの僧を本寺の都那師(※1)に任じたが、この僧は武勇に過ぎて専ら合戦を好み山上で乱闘がある時は必ず渦中にあり、諸国の叡山末寺荘園の所職をすべて兼務して数十人の兵士を従えて京と諸国を頻繁に行き来し、時には人の財物を略奪し、時には人の首を切る」と、その悪僧振りを描写している。
さて、その法薬禅師は長治2年正月に延暦寺末寺の筑前大山寺(だいせんじ)の別当を兼ねる石清水八幡宮(※2)別当・法橋(※3)光清から大山寺押領の廉で検非違使庁に訴えを起こされている。
そのいきさつを長治2年10月31日付の『中右記』から引用すると、法薬禅師と行算が結託して叡山から追放した天台座主・慶朝は、院宣によって石清水八幡宮別当法橋光清を末寺の筑前大山寺の別当に補任していたが、法薬は慶朝追放に乗じて延暦寺本寺の寺務を司る都那師という役職を利用して自らを「大山寺別当」に仕立て、延暦寺や日吉社の下級法師腹を筑前に派遣して大山寺支配に乗り出したのであった。
(※1)都那師(いなし):<仏>都那の事で三綱の一。寺中の寺務を司る役。都維那(ついな)。綱雄。知事。
(※2)石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう):京都府八幡(やわた)市にある元官幣大社。歴代朝廷の崇敬篤く、鎌倉時代以降は源氏の氏神として武家の崇敬も深かった。伊勢神宮・賀茂神社と共に三社の称がある。
(※3)法橋(ほうきょう):法橋上人の略。法眼(ほうげん)の次に位し、律師に相当する僧位。五位に准ずる。
参考文献は以下の通り