後白河院と寺社勢力(143)悪僧(3)貞尋(1)山上合戦

白河法皇治世下の延暦寺では平清盛の護持僧と称された天台座主明雲の門流である東塔南谷の円融房や皇族・貴族を特定とした寺の梶井門跡が成立し、康和4年(1103)に入滅した第37世天台座主・仁覚は梶井派の出であった。

 ところがその仁覚の跡を継いだ慶朝が反梶井派の代表勢力の出であったことからこの天台座主を巡る人事は山上合戦へと発展し、長治元年(1104)8月8日、反慶朝派の大衆は「慶朝が悪僧貞尋と同心して山上大衆を襲撃した」として慶朝の住房を打ち壊し、トップである天台座主を追放したのであった。

 それから長治2年(1105)閏2月に次の座主が任命されるまでの8か月間は座主空白状態が続いたが、その間の動きを院政期の代表的な公卿の日記『中右記』(※1)から拾うと、

 長治元年3月頃、叡山東塔・西塔の大衆が合戦し火を放って房舎を焼き、矢を放って死者が出ただけではなく、6月15日には西塔大衆が合戦して西塔の数十宇(建物の単位)を破壊するなど叡山が戦場と化したのであるが、他方で反慶朝派の大衆は「山上合戦は偏に権少僧都貞尋の所為であるから早く流罪にすべし」と朝廷に奏上し、京中で貞尋を探し出してひっ捕らえたという噂も伝わっていた。

 ところで、叡山大衆から悪僧呼ばわりされた貞尋とはどういう僧であるかといえば、摂関家藤原道隆清少納言の主で一条皇后・定子の父)の曾孫にあたる備後守・良貞の子として生まれ、叡山西塔の勝範に弟子入りして永保4年(1084)には兄弟子・懐空より譲与されて権律師(※1)に任じられ、その後も研鑽を積んで権少僧都(※2)にまで上り詰めた天台密教法脈に身を置くエリートであった。

(※1)『中右記(ちゅうゆうき)』:中御門右大臣藤原宗忠の日記。堀河天皇から崇徳天皇までの50余年間(1087〜1138)にわたる院政期の朝廷の典礼・儀式・政治・社会各種の事情を記した。

(※2)権小僧都(ごんのしょうそうず):僧都が僧綱の一つで僧正に次ぐ高官。大僧都・権の大僧都・小僧都・権の小僧都にわけた。

参考文献:『中右記〜躍動する院政時代の群像』 戸田芳実 (株)そしえて