治承2年(1178)
10月4日 延暦寺の堂衆と学生が闘争。後白河院の命を受けた平清盛が堂衆を討伐。
この延暦寺の学生(※1)と堂衆(どうしゅ)の衝突は、その前年の治承元年(1177)の敦賀津において、越中の所領の知行(※2)を巡って学生の叡俊と堂衆の義慶が乱闘をしたことに端を発し、本寺の叡山で学生と堂衆がそれぞれに陣地を構えて合戦を繰り返す事態に陥り、追い詰められた僧綱(※3)・学生側がこれまで不入(※4)を盾に一切の国家権力の介入を拒否していたにもかかわらず遂に朝廷に官軍の応援を要請する事態に至ったのである。
九条兼実はこの事件を同年9月24日付『玉葉』で「近日延暦寺の学徒と堂衆が数度合戦を企つ」と記すと共に、延暦寺の僧綱・学生から政府軍の出動要請に応えて平清盛を派遣した後白河院の措置を「忽ち官軍を遣わすの条、専らしかるべからず」と批判し、先ずやるべきことは争いの責任者の罪を明らかにすることだと主張している。
翌年の治承3年(1179)
7月25日 朝廷は兵を派遣して延暦寺堂衆を攻撃。
10月5日 後白河院は平教盛を派遣して延暦寺堂衆を制圧。
10月25日 後白河院は平経房を派遣して延暦寺の堂衆と学生の講和を図る。
11月20日 延暦寺西塔の学生と横川の堂衆が闘争。
しかるに堂衆側は5千人の学生・官軍を相手に、近江と畿内の強盗・山賊・海賊など数多の悪党をかき集めて徹底抗戦し、遂に劣勢に立たされた学生の多くが叡山から姿を消し、『平家物語』が「そののち山門いよいよ荒れはてて、法華三昧・常行三昧の12人の僧侶の他は止住の僧侶まれなり。・・・・開山以来三百余歳の法燈をかかぐる人もなく」と叡山の荒廃ぶりを描写する事態となるのである。
この事件が世間の注目を集めたのは、これまで全く表面化することのなかった叡山の学生と堂衆の対立の激しさであり、かつ、長い間下級僧として学生に仕えてきた堂衆が何故これほどの力を持ちえたのかという驚きであった。
さらには、この騒動が、事もあろうに治承元年(1177)6月の鹿ケ谷事件の直後、平清盛が福原から大軍を率いて入京して後白河院政を停止させた治承3年(1179)11月のクーデターの直前という情勢下で生じた事に何らかの意味を読み取ろうとするのは私の深読みであろうか。
(※1)学生(がくしょう):諸大寺で仏典を就学する者。学侶。
(※2)知行(ちぎょう):土地を支配する事。中世、上位者から与えられた所職や所領を支配する事。
(※3)僧綱(そうごう):僧尼を統領し法務を統轄する僧官。624年に僧正・僧都・法頭が設けられたことに始まり、後に僧正・僧都・律師となる。
(※4)不入(ふにゅう):国司や守護など国家権力が検田・租税徴収・検断などのために派遣した使いを立ち入らせないこと。
参考文献は以下の通り。
『寺社勢力』黒田俊雄 岩波新書
『平家物語』新潮日本古典集成 新潮社