後白河院と寺社勢力(144)悪僧(4)貞尋(2)大衆張本

  ところで前回述べた悪僧貞尋(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20130308)は、82歳で永久6年(1118)2月15日に入滅したのだが、この時検非違使別当(※1)であった藤原宗忠は、同日付『中右記』(※2)で「くだんの人、年来大衆張本なり。山上(叡山)において合戦を企てること数十度。ついに勅勘(天子のとがめ)を蒙って死去す」と追悼ならぬ言葉をしたためている。

しかし、貞尋が悪僧振りで勅勘を蒙ったのは長治の山上合戦で華々しく活躍した68歳頃であり、その後14年も生き永らえていたことを考えるとむしろ天寿を全うしたと評する方が適切で、勅勘の効き目は甚だ疑わしい。

 さて、この貞尋の悪僧デビューはさらに遡った承暦3年(1079)6月頃とされるが、この時は自分の僧房が打ち壊されて反撃に出たもので、その背景には延暦寺末寺・祇園社の検校(※3)を巡るトラブルが絡み、祇園検校に補任された貞尋の師・懐空が貞尋に慣例を破る譲与をした事から、祇園検校人事はこの二人が結託したものとして反対派の大衆が二人の房舎を打ち壊したと見られる。

 この祇園検校人事を巡る紛争は二か月にわたる闘争を経て千人を超える大衆が入洛する嗷訴へと発展したが、その内の6百人は大般若経(※4)を、2百人が仁王経(※5)をそれぞれ一巻ずつ手にし、残る2百人が武装するというまことにユニークなスタイルであったようだ。

 検非違使別当藤原宗忠から「年来大衆張本なり。山上において合戦を企てること数十度」と非難される悪僧・貞尋であったが、権少僧都まで上り詰め、かつ、関白主催の法会にも参加する高い学識と行法を修めた事からも、大衆から浮き上がった存在ではなく彼らの合意を背景にリーダーシップを発揮していたことが読み取れる。


(※1)検非違使別当(けびいしべっとう):京中の非法:非違を検察し、追捕・訴訟・行刑を司った平安初期から置かれた現在の裁判官と警察官を兼ねた強大な権限を持つ職の長官。

(※2)『中右記(ちゅうゆうき)』:中御門右大臣藤原宗忠の日記。堀河天皇から崇徳天皇までの50余年間(1087〜1138)にわたる院政期の朝廷の典礼・儀式・政治・社会各種の事情を記した。嘉承元年(1106)右大弁を辞任。同年、12月27日に検非違使別当に補せられた。

(※3) 検校(けんぎょう):社寺の総務を監督する役。

(※4)大般若経(だいはんにゃきょう):最大の仏典。般若波羅密(智慧・到彼岸)の義を説く諸経典を集大成した物。玄奘の訳、600巻。般若(智慧)の立場から一切の存在はすべて空であるという空思想を説く。

(※5)仁王経(にんのうきょう):仏典の一。護国安穏のためには般若波羅密多を受持すべきことを説く。日本では鎮護国家の三部経として、法華経・金光明経・仁王経が古くから尊重されている。

参考文献は以下の通り

中右記〜躍動する院政時代の群像』 戸田 芳実 (株)そしえて

『僧兵=祈りと暴力の力』 衣川 仁 講談社選書メチエ