後白河院と寺社勢力(145)悪僧(5)行算〜落雷は懲か?

中右記』の著者藤原宗忠は、天永4年(1113)に検非違使別当を任じられて白河院政下の政権安定と京の治安維持の陣頭指揮に当たったことから、叡山の大衆並びに悪僧の動向に対しては並々ならぬ注意を払っていた。

 その宗忠が、長治の山上合戦から(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20130308)4年後の嘉祥3年(1108)、延暦寺の前上座(※1)行算の宿坊に落雷との報を受けて、6月14日付『中右記』に「くだんの僧、大衆張本たり、山上(叡山)の人、すこぶるその懲(こらしめ)にあたるの由、衆口嗷々」と記したのは、この行算が落雷に先立つ3月、尊勝寺の灌頂阿闍梨(※2)のポストを巡って、事もあろうに天敵の園城寺と組んで嗷訴の先頭に立った張本人だったからである。

 朝廷の御願寺とされる六勝寺(※3)の一角を占める尊勝寺の灌頂阿闍梨のポストは、僧綱(※4)を目指す者にとっては将来が約束された僧位であり、天台宗延暦寺園城寺)と真言宗(東寺)の僧が順番に勤めることになっていたのだが、その年は園城寺に当たっていたものを白河法皇が東寺の僧を推した事から、行算が延暦寺の大衆を率いて園城寺と組み嗷訴に及んだのであった。

 この時の宗忠は検非違使別当ではなかったが六条殿に召集された対策協議に列席し、白河法皇の言い分と天台(延暦寺園城寺)側の言い分にはそれぞれに理解を示しながらも、嗷訴という強引な手段で押切った延暦寺園城寺側を強く批判していた事から、宿坊への落雷という不運に見舞われた行算に対して「大衆張本たり、山上の人、すこぶるその懲(こらしめ)にあたるの由、衆口嗷々」と遠慮のないコメントを記したのであろう。
 
 さてその行算は、長治の山上合戦では追放された座主・慶朝に代わって次期座主が就任するまでの8か月間を寺主(※5)として授戒・舎利会・灌頂などの重要な行事を仕切り、上座という三綱の最上位に昇り詰めた実力者であったが、ここで特筆すべきは、長治の山上合戦で座主慶朝と権少僧都・貞尋を追放した対抗勢力側の張本人であったこと。

 つまり、長治の山上合戦は権少僧都・貞尋を頭目とする西塔と、行算を頭目とする東塔の二つの党派の抗争であり、さらにこの行算には悪僧で名高い法薬禅師という相棒がいたのであった。


(※1)上座(じょうざ):<仏>三綱の一。年長・有徳の者で寺内の僧侶を統監し、寺務を司る役僧。

(※2)阿闍梨あじゃり):<仏>密教で修行が一定の階梯に達し、伝法灌頂により秘法を伝授された僧。日本で、天台・真言の僧位。

(※3)六勝寺(ろくしょうじ):平安末頃、京都東山岡崎付近に建てられた皇室の御願寺の総称で、法勝寺・尊勝寺・円勝寺・最勝寺・成勝寺・延勝寺の6ヶ寺からなるが、全て承久・応仁の乱で失われた。

(※4)僧綱(そうごう):僧尼を統領し、法務を統轄する僧官。624年に僧正・僧都・法頭が設けられたことに始まるが、後に僧正・僧都・律師となり、佐官(後に威儀師・従儀師)がおかれた。

(※5)寺主(じしゅ):<仏>三綱の一。寺の庶務を監督する職位。因みに寺内の僧侶・寺務を管理する三種の役僧である三綱は、上座・寺主・都維那で構成されている。


参考文献は以下の通り

中右記〜躍動する院政時代の群像』 戸田 芳実 (株)そしえて

『僧兵=祈りと暴力の力』 衣川 仁 講談社選書メチエ