後白河院と寺社勢力(141)悪僧(1)豪雲(1)源頼政

 治承元年(1177)4月13日、日吉社と白山社の神輿を振りかざした延暦寺の僧徒が大挙して加賀守藤原師高の流罪を求めて入洛した時、朝廷の命により内裏の警固に当たった源平の陣容は次の通りであった。

 平家は総大将平重盛が3千騎を率いて東の陽明門・待賢門・郁芳門を、弟の宗盛・知盛・重衡以下はそれぞれ西、南の門を固めていたが、源氏は総大将の源頼政がわずか3百騎で北の門を固めていたにすぎなかった。

 そこで僧徒は警固が手薄の北の門から神輿を入れようとしたところ、待ち構えていた頼政は馬を降りて兜を脱ぎ、手下と共に神輿を伏し拝み、使者を立てて「山門(延暦寺)の訴えは理にかなっており加賀守の成敗の判決が遅々として決まらないことを残念に思っています。しかしながら、わずか3百騎を蹴散らして神輿を引き入れたところで、京童の格好の嘲笑の種となり叡山の名誉が傷つくのではないでしようか。されば、3千騎で固めた東の門からお入りになれば皆さんの名が後世に語り継がれるでしよう」と述べさせた。

 これを聞いた血気にはやる若い僧徒は「こんな戯言に耳を傾けずとにかくここから突破すべきだ」と喚いたが、それを押しとどめたのが豪雲という老僧であった。

 荒ぶる僧徒を制して「頼政殿は尤もな道理を申された。われらの神輿は多勢の警固を打ち破ってこそ後世に語り継がれることになりましよう。ここにおられる頼政殿は清和天皇第六親王の孫王であられ、弓を取っては誰にも引けを取らないばかりか、和漢の才と歌道に優れた風流を解するお方(※)、そのようなお方が山王(日吉社の別名)神輿にこうべを垂れ、われらに降伏を請うておられる中を蹴散らしてもわれらが後世の笑い者になるだけだ」と豪雲が声を挙げて説得すると、大挙した僧徒は神輿の向きを変えて陽明門に向かったのである。

 この荒くれ僧徒の集団を説得した豪雲とは村上天皇第7皇子具平(ともひら)親王から7代目の孫に当たる村上源氏の出で、『源平盛衰記』では「悪僧にして学匠」「詩歌に達して口聞(くちきき:言葉巧みなこと)」と述べている。

(※)源頼政は家集『頼政集』を著し、『無名抄』で俊恵が「頼政卿はいみじかりけり歌仙なり、心の底まで歌になりかへりて、常にこれを忘れず」と評したほどの天性の歌人であったが、近衛天皇の御世に宮中の鵺退治で名を馳せた武人でもあった。 治承4年(1180)に以仁王を奉じて平氏追討を図り戦いに破れて宇治平等院で自害し77歳の生涯を閉じた。

参考文献 『平家物語 上』 新潮日本古典集成 新潮社

『僧兵=祈りと暴力の力』 衣川 仁 講談社選書メチエ

『国文学〜解釈と教材の研究 昭和40年 10月号』 学燈社