さて先に述べた延暦寺の僧徒が大挙して日吉社と白山社の神輿を振りかざして加賀守藤原師高の配流を求めた嗷訴(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20130218)は、舞台を後白河院御所に移して訴訟の場面へと展開する。
後白河院が御所南面に姿を現し控えている老僧に名を問うと「西塔の僧で豪雲と申す者です」との答えが返ってきた。
その名を聞いて、三塔(東塔・西塔・横川)一の僉議者(※1)としての高名と源頼政の意向を僧徒に説得したリーダーシップで豪雲に注目していた後白河院が持ち前の好奇心を発揮して、「あなたは延暦寺一の僉議者と聞いている。そうであれば、この場で延暦寺の講堂の庭で僉議すると同じ事を再現すれば懸案の訴訟の裁決の結果も速やかに出るであろう」と持ちかけると、
豪雲は恭しく頭を地につけながら、
「お言葉ではございますが、延暦寺の僉議は大講堂の前庭で三千人の衆徒を集めて行うのです。僧徒は破れ袈裟で頭を包み、童部や下部の者は直垂の袖で頭を包み、それぞれが2〜3尺の入堂杖で道芝の露を打ち払って手にした小さい石に腰を掛け、弟子にも同宿者にも互いが見分けられないように居並ぶ前で、私のような僉議者(※)は鼻をおさえ声を替えて「満山の大衆、立ち廻られよ」と声をかけて、訴訟の問題提起と自分の意見を述べますが、延暦寺ではそれが2〜3時間に及ぶ大演説になることもあります。
それに続いて行動の具体化や賛否の意見が交わされ、参加者は趣旨に賛同であれば「尤も、尤も」、同意できなければ「謂れなし」と叫びます。ですから、いくら法皇の仰せでも、頭や顔を包むもののない状態で、どうしてここで僉議ができましようか」
と、豪雲が異議を申し立てると、後白河院は「早々に山に戻り、叡山と同じいでたちで直ちに出直してここで僉議せよ」と命じた。
そこで、裹頭頭巾の僧徒と直垂に顔と頭を包んだ童部合わせて30人ばかりを引き連れて戻った豪雲が、2時間ばかりで僉議を再現して「尤も、尤も。訴訟その謂あり。道理は明白なのであるから早く奏聞を経られるべし。英明な君主の政事が行われている時なのだから、どうしてご裁許が下りないことがあるもものか」との結論に導いた。
この一部始終を興味深くみつめていた後白河院は直ちに裁許を命じ、4月13日の嗷訴から7日後の4月20日、僧兵の要求通り藤原師高は伊豆に配流されたのである。
(『天狗草紙』に描かれた延暦寺の三塔僉議の場面)
(※1)僉議者(せんぎしゃ):雄弁家。論客。
参考文献は以下の通り
『寺社勢力』 黒田俊雄 岩波新書