後白河院と寺社勢力(140)僧兵(13)南都北嶺(7)堂衆(4)

 治承3年(1179)11月の覚快の辞任と明雲の就任という天台座主人事を以て延暦寺の「学生・堂衆合戦」は取り敢えずの収束を見たのだが、23年後の建仁3年(1203)3月に二者の抗争は再び勃発する。

 時は後白河院崩御後10年余を経て、奇しくも治承3年の「学生・堂衆合戦」収束の翌年に誕生し数え4歳で即位しながら早々と譲位した24歳の後鳥羽上皇の御世であった。

 勃発の引き金は、西塔南谷の堂衆がルールを破り学生より先に湯屋(浴室)を使った事で、これに抗議した西塔の学生は一斉に叡山を降りたのだが、東塔・横川の学生も連帯して次々と山を去り「三塔無人」という事態に発展した。

反撃に出るべく5月に叡山に戻った学生が、西塔の「湯谷建造」を決議し、城郭を築いて合戦に備えたものの、9月に所領荘園から徴集した軍兵を率いた堂衆の一斉攻撃を受けて、学生の訴えを受けた後鳥羽上皇の停戦院宣により堂衆が退散する形で一応収束する。

翌月10月の朝廷を舞台にした訴訟合戦では、日頃の王権との親密な関係を有利に活用した学生が「叡山からの堂衆追放」を強硬に主張して、堂衆の「僧名帳」からの「名字」の削除と叡山からの永久追放を命じる後鳥羽院宣を勝ち取ったのであった。

 ここで云う「僧名帳」とは寺僧の登録簿の事で、寺僧の寺からの追放に当たっては、その名をまず「僧名帳」から抹消する事になっており、この後鳥羽院宣自体が、堂衆が学生(衆徒)同様に延暦寺の構成員と看做されていたことを物語っている。

 程なく後鳥羽院宣による「堂衆討伐」を掲げた官軍が、10月5日に堂衆の拠点を攻撃すると、堂衆はまたもや官軍を打ち破るのだが、彼らは勝利の雄叫びを上げる代わりに密かに陣地を脱しその後は表だって動くことはなかった。

しかし、ほとぼりも冷めた5年後の建暦元年(1211)8月、堂衆同情派の世情の後押しもあったのか、後鳥羽上皇が「堂衆帰山許可」の院宣を下すと、またもや学生の強硬な反対に押し切られ、堂衆が再び叡山に戻ることはなかった。

 この「学生堂衆合戦」で注目すべきは、治承2年(1178)の合戦勃発から建暦元年(1211)に堂衆が姿を消すまでの30年間、この時期のみに堂衆と区別するために「大衆」が「学生」と呼ばれ、堂衆の存在が消えると再び学生が大衆と呼ばれるようになったことであり、「学生と堂衆」の対比は平安時代末から鎌倉時代初期に限っていた事を示している。

共に延暦寺の「僧名帳」に名を連ねながら、ある時期に集中的に争い、武力では圧倒的に劣勢ながら、知識力や朝廷との親密さを振りかざして堂衆を追い落とした学生の勝利を見るに、ロビイストという存在は何も現代の産物ではないと考えさせられる。
 
 さらに深読みすれば、突如勃発した「学生・堂衆合戦」の要因は、堂衆が掌握してきた「借上」「出挙」「寄沙汰」などの莫大な利権ビジネスの乗っ取りを学生が目論んだことにあるのではないかと思っている。

 
参考文献:『京を支配する山法師〜中世延暦寺の富と力』下坂守 吉川弘文館