後白河院と寺社勢力(138)僧兵(11)南都北嶺(5)堂衆(2)

 治承2年(1178)に幕を切って落とされた延暦寺の堂衆と学生の抗争が世間を驚かせたのは、これまで全く表面化することのなかった二者間の対立であったことは既に述べた(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20130108)。

では、この抗争で俄かに出現した「学生」と「堂衆」という二つの集団を当時の人々はどのように認識していたのであろうか。ちなみに、公家の最高位にあった九条兼実は、治承3年(1179)11月2日付『玉葉』に「後に聞く、西塔の大衆、横川を以て城となす堂衆を襲う、衆徒還(また)敗る」と記し、横川に城郭を築いた堂衆を襲って敗北した「学生」を大衆・衆徒と見做していた。

その『玉葉』は、翌日11月3日付で「人伝えて云わく、山(叡山)の大衆猶以て闘諍す。官兵等坂下に向かうといえども山上を攻めること能(あた)わず。徒(いたずら)に運上の人物等を抑留するの外他事なしと云々。又堂衆等、学生の城を焼き払い了(おわ)んぬと云々」と、学生に請われて出動した官軍はひたすら堂衆への補給物資を断つことに追われ、方や学生は堂衆に城郭を焼き払われ散々の体であったことを伝えている。

「学生・堂衆合戦の前編」ともいえる治承の抗争は、官軍の応援を得た学生の連敗に終わり、一連の騒動の責任を取って天台座主・覚快が辞任し、代わりに学生・堂衆から信頼を受けていたとされる円融房明雲の座主就任でとりあえずの収束をみる。

そして、この抗争が世間に衝撃を与えたのは、従来から充分な武力を備えていた学生だけでなく、合戦のプロである武士が中心の官軍との連合軍を相手に勝ち戦を重ねた「堂衆」の圧倒的な力量であった。

一体、「堂衆」とは何者で、どのようにして彼らはこれほどの力量を備えてきたのか、先ずは、「堂衆」について『平家物語巻第三』から以下に引用してみたい。

「山門(叡山)に『堂衆』と申すは学生の所従なり。童部の法師(※1)になりたるなり。もとは中間(※2)の法師ばらにてありけるが、金剛寿院の座主・覚尋僧正の治山のときより、三塔に結番して『夏衆(げしゅう)』と号し、仏に花香を奉る者どもなり。近年は『行人(※3)』として、大衆をもことともせざりしが、かく度々軍(いくさ)に勝ちにけり」

つまり「堂衆」とは、元は学生の身辺や食事の世話をしていた童部が法師となった中間法師で、第35代天台座主・覚尋僧正が三塔(東塔・西塔・横川)の仏前に花を供えるために彼らを「夏衆」として編成した下級僧であったが、近年は「行人」とも称して主であった大衆をものともしないばかりか、その大衆相手の合戦で幾たびも勝つ存在になっていたのであった。

(※1)法師:出家した者、あるいは法体(頭髪を剃った)の俗人男子。

(※2)中間(ちゅうげん):仲間とも書く。中世、公家、武家、寺院などに仕える従者の一つ

(※3)行人(ぎょうにん):仏道を修業する人。延暦寺の堂衆。あるいは乞食僧のこと。


参考文献は以下の通り。

『京を支配する山法師たち』 下坂守 吉川弘文館

平家物語 上』 新潮日本古典集成 新潮社