新古今の周辺(81)寂蓮(28)和歌所(5)『三体和歌会』(1)

『三体和歌会』は、後鳥羽院の主催で建仁2年(1202)3月20日に仙洞御所で催され、参加した歌人は、後鳥羽院・良経・慈円・定家・家隆・長明・寂連の7人で、雅経と有家も召されたが病気を理由に辞退している。

この『三体和歌会』に関しては鴨長明の『無名抄』の記述が余りにも有名なのでそれを引用してみたい。

(御所に朝夕候ひし頃、常にも似ず珍しき御会ありき。「六首の歌にみな姿を詠みかへてたてまつれ」とて、「春・夏は、太くおおきに、秋・冬は細く乾らび、恋・旅は艶に優しくつかうまつれ。もし思ふやうに詠みおほせずは、そのよしをありのままに申し上げよ。歌のさま知れるほどを御覧ずべきためなりり」とおほせられしかば、いみじき大事にて、かたへは辞退す。心にくからぬ人をおばまたもとより召されず。かかればまさしくその座にまいりて連なれる人、殿下・大僧正御房・定家・家隆・寂連・予と、わずかに六人ぞ侍りし。)

ここでの寂蓮の出詠歌は、先ずは後鳥羽院から賞賛され、さらに『新古今和歌集』(巻一・春上・八七番)にも入集した春の歌からみてみたい。

  春 ふとくおほきによむべし
かづらきやたかまの桜さきにけりたつたのおくにかかる白雲
(現代語訳:葛城連山の高間の山(※)の桜の花が咲いたことよ。龍田山の奥の方にかかっている白雲と見えるのは、その桜の花に相違ない)

ところでこの寂蓮の歌と長明が出詠した春の歌の主材が「高間の山の桜」でかち合った経緯について、長明は『無名抄』で次のように記している。


〔春の歌をあまた詠みて、寂連入道に見せ申し時、この高間の歌を「よし」とて、点合はれたれしかば、書きてたてまつりき、すでに講ぜらるる時に至りてこれを聞けば、かの入道の歌に、同じ高間の花をよまりたりけり。わが歌に似たらば違へむなど思ふ心もなく、ありのままにことわられける、いとありがたき心なりかし。さるは、まことの心ざまなどをば、いたく神妙なる人ともいわれざれしを、わが得つる道なれば心ばへもよくなるなり」〕

寂蓮の歌人としての見事な心映えを記した長明の春の歌は下記の通りである。

雲さそふ天つ春風かをるなり高間の山のはなざかりかも
【現代語訳:花の雲を誘って散らせる空吹く春風がかおっている。高間の山は花盛りなのだろうか】

(※)高間の山:奈良県御所(ごぜ)市の金剛山の別称。桜の名所。

参考文献:『無名抄 現代語訳付き』久保田淳 訳注 角川文庫

『日本の作家100人〜人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版