寂蓮は同時代の歌人の中では西行に次いで実際の旅を通した歌を多く残している。ここでは『寂蓮法師集』から旅先で詠んだ歌を幾つか採りあげて寂蓮の旅情を味わってみたい(原文で)。
先ずは、34才で出家する承安2年(1172)年前後から治承4年(1180)の福原遷都の頃までに都の周辺を中心に旅をして詠んだものから大和の柿本人麻呂の墓所を訪れた時の歌を。
人麿の墓尋ねありきて柿本の明神にまうて
古きあと苔の下まて忍はすはのこれる柿の本をみましや
次は、寂蓮52才の建久元年(1190)の春頃に出雲大社へ参詣の旅をして詠った歌。
出雲の大社に参りける道美作国に懐繩が侍りける かくとききて なとともなはさりしなと 云つかはして
いにしへも思ひ出雲のかひもなく隔てける哉その八重垣を
かへし 懐繩
思ひあれ隔つる雲もなかりけり妻もこもれり出雲八重垣
出雲の大社に下向して侍りけるころ兼宗申遣ける
かくばかりふかき思ひをしるへにて八重のそこに尋ね入りけん
かへし 寂蓮
きく人も八重のそこはしる物を尋ぬる道そまよふ成ける
出雲のきつきの宮にまいりていつも河の邉にて
出雲川ふかき湊をたつぬれははるかにつたふわかの浦なみ
更に翌年の建久2年(1191)9〜10月頃の東国への旅と、その後に宇治山の喜撰法師の庵の跡及び摂津国の蘆屋の布引の瀧を尋ねた時の歌。
末の秋あつまの道にて手越はつくらと云所を
越えてこしうつの山路にはふつたもけふや時雨に色はつく覧
東の方に侍りけるころ十月計閑居虫
よそに思ふ人めのみかは虫の音もかれのの末の庵なりけり
摂津国の蘆屋という所にしほゆあみける時、布引の瀧見にまかりて月出るまてありけり
山かせに雲のしからみよはからし月さへおつる布引のたき
宇治山喜撰跡なといふ所にて人々哥よみける秋の事なり
あらし吹くむかしの庵跡たえて月のみそすむ宇治の山本