後白河院と寺社勢力(59)渡海僧(3)重源 3 運慶と快慶 1 

  今から50年も前の中学の美術で、東大寺南大門の金剛力士像の阿形と吽形の見事な調和を目にして以来、長い間私の頭の中に「運慶と快慶」は対の存在として刷り込まれていた。例えは古いが、一世を風靡した漫才コンビの「ダイラケ(ダイマル・ラケット)」のような、あるいは職場で何時も対になって行動するので「おしゃれ小鉢」と称された若い同僚のようなものとして。


   


金剛力士像 阿形(左)と吽形(右)『日本美術全集10 運慶と快慶』講談社より)


 『ここからみると奈良は火の海である。興福寺の東金堂の屋根が焼ける。西金堂も火がついている。五重塔と三重塔は火柱となって焼け落ちた。すぐ眼の下にある東大寺の大仏殿は炎上の旺(さか)りで、逃げ帰ってきた者が話しているのを聞くと、大仏殿の二階の上には2千人余りが焼死しているという。金銅16丈の廬遮那仏(るしゃなぶつ)は御頭(みぐし)が地に落ちたと語った。講堂、食堂(じきどう)、回廊、中門、南大門はすでに跡かたもなく焼けたとういうのだ。(中略)

 天平の諸仏体は、いまこの炎の中に消滅し去ろうとしている。運慶は炎を凝視していた。凝視しているのは、実は、不空羂索(ふくうけんじゃく)立像や四天王立像とその足下の鬼形や、八天像、十大弟子像、十一面観音像などの素描であった。(中略)

 運慶はその消失を不思議に惜しいとは思わなかった。惜しいと思うのは、尋常の観念だと考えた。いつでも見られる眼前の具象が残ることはかえって邪魔なのだ。(中略)

 運慶はそんな身勝手な事を考えて、燃え狂う火を群集と共に、眺めた。すると、横でしきりと炎に向かって合唱して歔(な)く者がいる。彼は口の中で「恐ろしやな。天竺、震旦(しんたん)にもこれほどまでの法難はあるまい」と、呟いては、泣きながら経を誦(ず)している。運慶はその男を見た。それが父の康慶の弟子の快慶であった。運慶は忽ちこの男を軽蔑した。これは畢竟、尋常な人間なのである。』

 長い引用になったが、これは、松本清張の短編小説「運慶」から、平重衡の南都焼討の光景を春日山に避難して眺めている運慶を描いたものである。


 何よりも独創性とリアリティを重んじる運慶は、仏師としての芸術の天分は快慶よりも自分の方が一枚も二枚も上手だと自負したにもかかわらず、東大寺造営勧進職・重源は、快慶には東大寺中門の二天像、僧形八幡神坐像、南大門金剛力士像阿形など5作品を造らせたのに対して運慶には3作品しか造らせていない。


 その理由を小説「運慶」は、
「運慶の造った仏像は、あんまり人間臭くて感心しない。仏像は尊厳さが第一だ。写実も結構だが、ああ、仏放れがしていては、仏という感じに遠くなる」と、
運慶の作品に対する重源の言葉として用いている。


 さて、そうなると、探究魔を自認する私としては、長い間「対」として認識してきた運慶と快慶の作風にそんなに大きな違いがあるとすれば、実際にこの目で確認しなければ気がすまない。


 そう思っていたところ、折りしも東京国立博物館で「東大寺大仏」展が催されていることを知り、早速会場に足を運んだのだが、そこで、驚かされた事は次の二点である。


 その第一は、快慶の代表作とされる金剛力士像阿形の筋骨逞しく迫力満点の作風と、優美で穏やかな他の諸作品との余りにも大きな違いである。


 そして第二の驚きは、東大寺南大門の金剛力士像解体修理を終えて発見された「金剛力士像像内納入品」の記録では、これまで運慶の作とされてきた吽形像の作者は定覚(運慶の実弟)と湛慶(運慶の長子)、他方、快慶の作とされてきた阿形像の作者は運慶と快慶と墨書されていた事である。


やはり、足を運んで実際に目にしなくてはわからないことがあるものだ。



参考文献は以下の通り、

『小説日本芸譚』より「運慶」松本清張 新潮文庫

『図解人物海の日本史2日宋貿易元寇毎日新聞社

『運慶と快慶〜相克の果てに』西木暉 鳥影社