後白河院と寺社勢力(60)渡海僧(4)重源 4 運慶と快慶 2 

 先日は栄西像を見るために鎌倉国宝館に足を運んだのだが、そこで運慶の作品と対面したばかりか鎌倉幕府が運慶一門を重用した形跡を知ることが出来たのは望外の収穫であった。因みに入館券には運慶作とされる「十二神将立像」が使われている。

   



 では、何故鎌倉幕府が運慶を重用したのであろうか。ここで私のすっ飛びを展開するなら、

 源頼朝が日本国総追捕使・総地頭に任じられた文治元年(1185)を「鎌倉時代」の開始とするなら、その翌年の文治2年(1186)に北条時政(※1)が願成就院静岡県)の『毘沙門天立像』を初めとする諸像を、さらに、文治5年(1189)には、和田義盛(※2)が浄楽寺(神奈川県)の『阿弥陀三尊像』等の諸像を運慶に造らせているのは、彼らなりの明確な意図があってのことであろう。


       


左は『毘沙門天立像』、右は『阿弥陀三尊像』のうちの『阿弥陀如来(中尊)』(ともに『日本美術全集10 運慶と快慶』講談社より)


 源頼朝と共に鎌倉幕府を創設したこれら二人の武人が、新しい「武者の世」の到来を世に周知させる広報活動の一環として仏像を建立したとすれば、律令国家並びに公家文化のシンボルともいえる定朝様式を連綿と踏襲して朝廷や平家に重用され仏師界を席巻していた院尊や明円を登用するとは到底考えられない。


 鎌倉幕府は彼らの新たな武者の文化を打ち立てるべく、院尊や明円に代わ仏師として慶派(運慶の父が棟梁)の奈良仏師に白羽の矢を立てたのであろう。他方、伝統に安住する院尊や明円の圧倒的な支配に辟易し、南都焼討により灰燼に帰す興福寺東大寺の仏像を眺めながら、これからいよいよ自分の独創性を発揮できると熱い血を滾らせていた運慶にとって、東国武士からの要請は新たな作風で仏師界の主導権を握る願ってもないチャンスだった。


 治承5年(1181)8月に重源が「東大寺造営勧進」職を拝命され東大寺復興事業がスタートしたのは既に述べたが、(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20101120)、

東大寺サイトの「東大寺の歩み・歴史年表」によれば(http://www.todaiji.or.jp/contents/history/chronology2.html)、

・文治2年(1185)3月7日、源頼朝、重源に米1万石・砂金千両・上絹千疋を送り再興を助成する(吾妻鏡

・建久元年(1190)12月初旬、源頼朝、密かに四天王寺東大寺に参詣する(東大寺文書)

・建久6年(1195)3月11日、源頼朝、馬千頭・米1万石・黄金千両・絹千疋等を重ねて寄進する(吾妻録)

 と、源頼朝東大寺修復に並々ならぬ関心を抱き、朝廷に対抗するかのごとく資金・資材面で相当な支援を行ったことが記されている。


 その莫大な経済的支援の威力を行使して、源頼朝が重源に慶派仏師の活用を示唆したと考えても何ら不自然ではない。何しろ聖武天皇の発願により建立され天平文化の象徴ともいえる東大寺に新たに武者の文化を打ち立てる事にもなるのであるから。


 この機会に宋朝様式を取り入れたい重源にとっても、これほどの大修復工事を考慮すると、院尊や明円の一派だけでは人員だけでなく技術面でも慶派の投入は不可欠であったであろうが、「運慶の造った仏像は、あんまり人間臭くて感心しない。仏像は尊厳さが第一だ。写実も結構だが、ああ、仏放れがしていては、仏という感じに遠くなる」(『小説日本芸譚』より「運慶」松本清張)と思えばこそ、より多く快慶の登用に傾かざるを得なかったのではあるまいか。


(※1)北条時政鎌倉幕府創業の功臣で初代執権。伊豆の流人源頼朝を引き立てて幕府創立に尽くし、娘政子の父として外戚の権威を発揮した。


(※2)和田義盛:鎌倉前期の武将で侍所の初代別当(長官)。源頼朝の挙兵に三浦一族と共に参加し、平家追討・奥州征伐に武功を立て重用された。
 

参考文献は以下の通り、

『日本美術全集10 運慶と快慶』講談社より

『小説日本芸譚』より「運慶」松本清張 新潮文庫

『運慶と快慶〜相克の果てに』西木暉 鳥影社