後白河院と寺社勢力(58)渡海僧(2)重源 2 天竺様式建築

  大仏修造については宋人鋳物師陳和興(ちんなけい)の革新的な技術を登用してほぼ三年をかけて成し遂げた重源であるが、次の難題は大仏殿修造である。


 天平17年(745)年に聖武天皇の勅願により東大寺が創建された頃は、遣唐使がもたらした大陸文化・仏教文化を受け入れた平文化が開花し、国力と民心に勢いがあったが、それでも東大寺造営に伴う莫大な事業費捻出は国家財政の窮乏を招いたとされる。 しかるに大仏修造の任を負った重源が直面した現実は、律令制度崩壊による国家財政の破綻と源平争乱による国土の荒廃と民心の疲弊であった。


(1)資材調達のイノベーション


  ともあれ資材の調達から始めねばならない。重源が最も欲した良質の巨木は、東大寺創建時の聖武天皇の治世時には畿内一円に豊富に見られたが、源平争乱、養和の大地震、度重なる飢饉を経た鎌倉初期には吉野の山奥か伊勢神宮の杣(※1)にしかのこっておらず、いずれもが金峰山伊勢神宮といった大寺社の所領となれば、幾たび重源がそれらの伐採許可を申請しても受け入れられるはずのものではなかった。


 朝廷が事態の打開を図って文治2年(1186)3月に周防国山口県)一国を東大寺造営料に充て重源に国務を管理を任せたので、重源は自ら番匠(※2)を率いて周防に赴くが、ここでも源平合戦の荒廃が甚だしく、飢えた民心を安定させる為に米や種子などを人々に与える事から始めなくてはならなかった。


 目当ての資材を求めて重源と番匠が杣に分け入ると、高さが7丈(21メートル)から10丈(30メートル)に及ぶ巨木のため、大轆轤を設けて70人の作業員が大綱で巨木を搬出するか、轆轤が使えなければ千人余りで轢く工夫を編み出さねばならなかった。


 そうして搬出した巨木も、空洞や枝木の良し悪しを吟味すると100本の内の90本は使い物にならず、吟味した資材を何とか佐保川に持ち込でも、浅すぎて木が流れない場所では、堰を築き水を溜めては落とすという作業を180箇所も繰り返して何とか木津の港に運び、そこから巨木を筏に組んで瀬戸内海を経て淀川に流し、淀川を遡って奈良まで運ぶという有様であったが、その間の樵(きこり)達の食事と健康管理ならびに士気の鼓舞などのマネジメントも含めて、正にロジスティックスにおけるイノベーションが求められたのである。
 

(2)『天竺様式建築』というイノベーション

  平清盛太政大臣従一位になった仁安2年(1167)に、47歳で入宋して諸寺を巡って最先端の仏教建築技術を習得して帰朝した重源が、資金不足、資材不足、時間不足、技術者不足の諸条件をクリアして大仏殿修造を成し遂げるために編み出したのが、最も簡単な工法を用いて最も堅牢な建造物を建てる『天竺様建築』であった。


 現在唯一大仏殿と同じ『天竺様式建築』を留めている東大寺南大門(下図)を文献と照合した専門家の結論を、建築に全く暗い私が、同じく建築に明るくない人たちに少しでも理解してもらえるように簡略化して述べると、



 


1、先ず18本の主柱(母屋柱)を揃える。

2、次に、これらに差し込む肘木(ひじき)や貫(ぬき)に用いる部材(長さ一尺2寸5分、厚さ7寸)を大量に造る。
 
3、そして、斗(※4)(1尺2寸8分四方、高さ9寸)を2080個作る。


 作業としては1と2の作業が大部分で、1と2の作業をしている間に1の柱に2を差し込む穴をほり、14本の虹梁(※3)と約500本の垂木を造って建物の骨組み部材の勢作を終える。


 下図の南大門木組をみると、柱を上層まで一本で貫き、そこに、肘木を差し込むという極めてシンプルな構造でありながら、層の屋根裏まで見透かせる内部構造を通して堅牢さが見て取れる。


  


 つまり、宋の仏教建築をつぶさに研究してきた重源は期せずして、今から820年も前に、個々人の技術差を問うことなく、大量の人員を投入して、資材の無駄を最小限にとどめ、短期間で、堅牢な建築物を構築するという、マスプロダクションの手法を編み出したのである。


(※1)杣(そま):植樹をして材木をとる山。

(※2)番匠(ばんしょう):古代、交代で都に上り木工寮(もくりょう)で労務に服した木工。

(※3)虹梁(こうりょう):社寺建築に用いる、やや反りを持たせて造った化粧梁(はり)。

(※4)斗(と):酒を酌みとる柄杓の形をしたものか。漏斗


写真と参考資料は『図解人物海の日本史2日宋貿易元寇毎日新聞社