後白河院と寺社勢力(57)渡海僧(1)重源 1 宋人鋳物師

 治承4年(1180)も押し詰った12月28日、「王法仏法」の象徴ともいえる東大寺平重衡の焼打ちによって灰燼に帰した。


 翌治承5年(1181)3月17日、左小弁兼蔵人の藤原行隆が十数人の鋳物師を引連れて焼損の実態を調査し「修造不可」の結論に達したにもかかわらず、後白河院は6月26日には藤原行隆を造寺造仏長官に任じ、8月には60歳の俊乗房重源に「東大寺造営勧進」の宣旨を下し、これをもって東大寺復興事業がスタートしたのである。


上図は俊乗房重源坐像(『図解人物海の日本史2日宋貿易元寇毎日新聞社より)


 ところで、後白河院が重源に「勧進」宣旨を下した事について、当初は、朝廷・摂関家鎌倉幕府から庶民にいたる幅広い信者を持つ法然上人を推挙したところ、「自分は念仏勧進に専心する身」と辞退する代わりに信頼の厚い重源を推薦したとの説もある。


上図は後白河院使藤原行隆(中)に重源(右)を推薦する法然上人(左)
(『続日本の絵巻2法然上人絵伝 中』中央公論社 より)


 律令国家崩壊に伴う財政破綻と源平争乱による国土の荒廃・疲弊の中での東大寺修復は並大抵ではなかったが、ここでは、渡海僧重源でなくてはなし得なかった点に絞って、先ずは大仏の修復から述べてみたい。


 「東大寺造営勧進」の宣旨をうけるやいなや、重源は直ちに大仏の螺髪(※1)から鋳はじめるのだが、大仏の頭部と大仏の両手の鋳造は日本の鋳物師の技術で充分可能としても、その頭部と両手を焼残った大仏の胴体に鋳継ぐ技術を日本の鋳物師が未経験であることが判明して重源は厚い壁にぶつかる。


 そこで重源が配下をあちこちに派遣して情報収集をしていたところ、宋の鋳物師・陳和卿(ちんなけい)が船が破損して帰国がかなわず九州の港に停泊していることを知り、早速彼を呼び寄せて鋳造方法を協議した結果、大仏鋳造の中心的役割に陳和卿一行を採用し、補佐役に東大寺鋳物師草部是助(くさかべこれすけ)を充てて大仏修造を推し進め、元暦2年(1185)8月28日には大仏開眼供養に漕ぎ着けている。


 このことから注目したいのは重源と宋人鋳物師陳和卿との繋がりである。重源が「東大寺造営勧進」の宣旨を賜って大プロジェクトに着手し鋳造の難題に直面していた。九州の港では宋人鋳物師陳和卿がたまたま停泊していた。それだけでは、この二人は繋がらない。


 宋王朝(960〜1279)の時代、私的な貿易は盛んに行われたが日本は宋と正式な国交を持たなかった。そんな状況下、入唐三度の経験を持つ重源であったればこそ、陳和卿に繋がる情報網を持てたのであろうし、宋人鋳物師が持つ技術への確信と信頼をもてたのである。 


 重源の抜擢に応えた東大寺鋳物師草部是助の系統が、後に「東大寺─大仏方供御人惣官」職を代々受け継いだ事は既に述べた(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20101104)。


(※1)螺髪(らほつ):仏像の頭部の髪の様式。螺状をした多くの髪がならぶもの。因みに螺とは殻が渦巻形に巻いている貝類のこと。


参考資料『図解人物海の日本史2日宋貿易元寇毎日新聞社