後白河院と寺社勢力(56)商品流通と政治権力(14)鉄4 兼・兼

 ところで「燈炉以下鉄器物供御人」を組織した蔵人所小舎人・惟宗兼宗の真の狙いは、鉄・釜・鋤・鍬など鉄器物の広域流通の支配だけでなく、全国に散在する鋳物師の業態を丸ごと独占支配するところにあったが、神人鋳物師の存在が大きな壁になって立ちはだかった。


 諸国に散在する鋳物師の多くは、惟宗兼宗が供御人化を推進する前から既に諸社の神人となっている者が多かった。そもそも、惟宗兼宗が供御人として最初に「本供御人番頭」の身分を与えた河内国丹南郷の鋳物師は興福寺領日置荘の住人であり、神人として領主(興福寺)に負っていた雑役から免除されようとして供御人になったのである。


 また、左方作手惣官を務める中原光氏が「蔵人所左方燈炉供御人兼東大寺鋳物師惣官」を名乗っていた事からも、東大寺鋳物師集団が既にが神人であった事は明白で、他方の草部姓を惣官とする「東大寺─大仏方供御人」も供御人に組織される前から既に東大寺神人であった。


 平安・鎌倉期の訴訟記録ともいえる「日吉社聖真子神人兼燈炉供御人井殿下御細工等解(※1)」は、仁安3年(1168)に広階忠光が「蔵人所燈炉供御人」惣官に就任して以来4代目の惣官職を継承した光延が廻船で泉州堺津に着岸した時に、建保3年(1215)蔵人所下文(※2)を賜ったとする阿入が「蔵人所燈炉供御人惣官」として彼らの荷を点検したことから、光延が自分が正当な「蔵人所燈炉供御人惣官」であると主張して訴えたものである。


 この解状には、光延たちが、摂関家に属する「殿下(※3)御細工」という立場を利用して、「殿下御教書」なるものを入手して阿入の惣官職を停止させたことが記されており、この場合は「殿下御細工」の身分を有することが惣官職の決め手となったのだが、実際の彼らは日吉社神人の立場を全面に押し出して各地を営業していたようである。


 このほかにも鋳物師に関する資料には、「「蔵人所左方東大寺燈炉供御人兼住吉大明神社御修理鋳物師某」なども見られ、その事自体が、鋳物師たちが身を置かなければならなかった立場による政治権力の特質と、カメレオンのようにその時々で一番有利な立場を使い分ける利に敏い鋳物師の本質を物語っている。


 ところで私の疑問は、4代目の惣官光延が存在しながら、蔵人所が、何故、阿入に「蔵人所燈炉供御人惣官」の下文を与えたかである。

 私の推測を述べるなら、日吉社神人を前面に押し出し、さらには摂関家に属する「殿下御細工」の身分をを振りかざす光延が惣官では、鉄器物の広域流通の支配だけでなく、全国に散在する鋳物師の業態を丸ごと統制したい蔵人所の目的達成は難しいと判断したからではないかと思っている。


(※1)解(げ):律令制で八省以下内外の諸官、すなわち京官・地方官が太政官および所管に上申する公文書。解状(げもん)とも解文(げぶみ)とも呼ばれる。

(※2)下文(くだしぶみ):上位者からその管轄下の役所や人民に下した文書。

(※3)殿下:醍醐天皇の頃から摂政・関白・将軍の敬称となった。

 

参考資料は「日本の社会史第6巻 社会的諸集団」(岩波書店