新古今の周辺(26)鴨長明(26)和泉式部を巡って(1)公任の視

冷泉天皇の皇子で兄の為尊親王と弟の敦道親王の双方から愛され、情熱的な女房歌人として今なお多くのファンを持つ和泉式部(※1)だが、歌人としての評価は一筋縄ではゆかなかったことを源俊頼の歌学書『俊頼髄脳』(※2)を引用しながら鴨長明は『無名抄』で浮き彫りにしている。。

70 式部・赤染勝劣のこと(1)

ある人が語るには、
俊頼の髄脳で定頼中納言(※3)が父の公任大納言(※4)に「式部と赤染(※5)とどちらが優れた歌人でしようか」と尋ねたところ、大納言は「式部は『こやとも人をいうべきに(※6)』を詠んだ歌人であり、赤染と同列に論ずべきではない」と応えられたので、式部のベストの歌では父と世の人との評価が異なっていると思った中納言は「式部の歌では『はるかに照らせ山の端の月(※7)』をこそ世間の人は一番と評しているようですが」と重ねて問いました。

大納言はそれに応えて「そのことこそ世の人がわからない事を言っているのだ。『暗きより暗きに』入ることは、経(法華経)の文であるから、末の区の『はるかに照らせ山の端の月』は上の句にひかれてそれほど工夫をしなくても思い浮かぶことばなのだ。

『こやとも人をいうべきに』と上の句を詠んで『隙(ひま)こそなけれ蘆の八重葺き』と末(下)の句を詠むことこそ並みの歌人の思い浮かぶ事ではない」とお答えになった。

上記からは、自らも第一級の歌人でありながら、『拾遺集』『和漢朗詠集』『金玉集』などを撰して撰者としても第一人者であった藤原公任が、「津の国のこやとも人をいふべきに、ひまこそなけれ蘆の八重葺き」という並外れた歌を詠むやんごとなき歌人和泉式部赤染衛門を同列に語るべきではなく、また、和泉式部の歌ではこの歌の方が「暗きより暗き道にぞ入りぬべき、はるかに照らせ山の端の月」より優れている事は明らかであると任じていて、どうしてそんな分りきった事を聞くのかねと息子に対している姿が浮かんでくる。

ところで長明がこれを記した頃の後鳥羽院歌壇は『新古今和歌集』に和泉式部の歌を25首、赤染衛門のそれを10首採用して二人の優劣に決着をつけている。

(※1)式部:和泉式部。平安中期の歌人。生没年未詳。小式部内侍の母。上東門院彰子に仕え、藤原保昌と再婚する。中古三十六歌仙。『和泉式部日記』『和泉式部集』。

(※2)『俊頼髄脳』:当該箇所は「歌のよしあしをも知らむことは、殊の外のためしなり。四条大納言に子の中納言の、『式部と赤染と、いずれかまされるぞ』と、尋ねもうされければ、『一口にいうべき歌よみにあらず・・・』で始まる。

(※3)定頼中納言藤原定頼。平安中期の歌人。公任の息子。権中納言正二位に至る、寛徳2年(1045)51歳で没。中古三十六歌仙。『権中納言定頼卿集』。『新古今和歌集』に4首入集。

(※4)公任大納言:藤原公任。平安中期の歌人。関白頼忠の息子。権大納言正二位に至る。四条大納言と称し、長久2年(1041)に76歳で没。『和漢朗詠集』を初め多くの秀歌選の撰者。中古三十六歌仙。歌集『大納言公任集』・歌学書『新撰髄脳』・有職故実書『北山抄』などを著す。『新古今和歌集』に6首入集。能筆で知られ現在も古筆として珍重されている。

(※5)赤染:赤染衛門。平安中期の歌人。生没年未詳だが長久2年(1041)に80歳余で生存。大江匡衡の妻。藤原道長正室・倫子に仕えた。中古三十六歌仙。『赤染衛門集』。『栄花物語』正編の作者と目される。

(※6)『こやとも人をいふべきに』:「津の国のこやとも人をいふべきにひまこそなけれ蘆の八重葺き【現代語訳:摂津の国の昆陽(こや)ではありませんが、「来や」つまり「訪ねていらっしゃい」とあなたに言いたいのですが、蘆を幾重にも葺いた小屋に隙間がないように、人の見る目の隙(ひま)がないので言えません】」を指す。

(※7)『はるかに照らせ山の端の月』:「暗きより暗き道にぞ入りぬべき、はるかに照らせ山の端の月【現代語訳:わたしは暗いところからさらに暗い迷いの世界に入ってしまうでしよう。遥かかなたから照らし出してください、山の端に懸る月(性空上人様)よ】」を指す。公任の撰集した『拾遺集』哀傷・1342詞書「性空上人のもとによみてつかわしける」より。

参考文献: 『無名抄 現代語訳付き』久保田淳 訳注 角川文庫
      『新潮日本古典集成 新古今和歌集』久保田淳 校注 新潮社