後白河院と寺社勢力(67)渡海僧(11)栄西5 乱世の流儀3 平

 栄西の生まれた永治元年(1141)は平氏が全盛に向かって駆け上る時代であり、他方で、朝廷と共に「王法仏法」の一端を担う仏教界は、南都北嶺の宗派争い、山門(延暦寺)・寺門(園城寺)の天台宗間の争い、挙句は神輿や神木を掲げて大挙して朝廷に押しかける強訴と、鎮護国家を祈るべき本来の役割を放棄して武力闘争に明け暮れていた。


 そんな状況下に、栄西が生まれた備中国を含む西国一帯は白河・鳥羽上皇の信任を得た平正盛・忠盛父子が代々国司を重任し、また、栄西の父・賀陽氏が神官をつとめる備中国一の有力神社の吉備津神社平頼盛が大檀那として名を連ねていたとも伝えられている。


 平頼盛は忠盛と池禅尼(※1)の間に生まれ清盛の異腹の弟に当たるが、栄西が入宋を志して筑前の宗像神社の大宮司・宗像氏の下に身を寄せていた時は太宰大弐(※2)として現地に赴任して日宋貿易を仕切り、さらに、宗像社の領家職(※3)も務めていたから宗像氏とも強い絆を築いていた。


 その平頼盛が28歳の青年栄西の仏教界の現状を何とかしたいとの志を支援し、かつ、日宋間の人的交流の活発化も視野に入れて、仁安3年(1168)の栄西の初回の入宋に手厚い支援をした事は十分考えられる。


 さらに栄西が宋からの帰国に際して、天台の貴重な典籍『新章疏(しんしょうそ)』三十余部六十巻を天台座主延暦寺のトップ)明雲に献上した事は、一度は延暦寺で学びながら失望して山を降りたとはいえ、栄西がこの実力者から目をかけられていたことを物語る。


 何しろ明雲といえば、天台座主として10年以上在位していたばかりか、平清盛の護持僧もつとめ、後白河院の寵臣・藤原成親(ふじわらのなりちか)を巡っては院との対立も恐れなかった権勢者でもある。 http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20091026


 清盛の護持僧たる平氏の威力を背景にした明雲が、栄西の入宋に関しては、単に将来性ある有望な弟子の為だけではなく、明雲自身にとっても貴重な天台の典籍入手の機会として、自ら資金援助をしただけでなく平頼盛に支援を強く働きかけたのではないかと私は推測する。


つまり、平氏の時代、栄西は時の権勢者からの支援に恵まれていたのであった。


(※1)池禅尼(いけのぜんに):平忠盛の後妻で清盛の継母。平治の乱源頼朝の助命を清盛に嘆願した。

(※2)太宰大弐(だざいのだいに):律令制下に九州諸国を統轄した大宰府の副長官。因みに長官は太宰帥(だざいのそつ)。

(※3)領家職:荘園の荘務の権利を有する者。


参考文献は『栄西 喫茶養生記』 古田紹欽 講談社学術文庫