後白河院と寺社勢力(68)渡海僧(12)栄西6 乱世の流儀4 袈

 半年の滞在を終えて重源と共に仁安3年(1168)9月に宋から帰国した28歳の栄西は、叡山に登って宋から持ち帰った天台の新章疏(しんしょうそ)三十余部8巻を天台座主明雲に手渡したものの、翌年には山を下りて備前に戻り、35歳で筑前今津の誓願寺に住持したものの、文治3年(1187)47歳で2度目の入宋を試みるまで表舞台に姿を現していない。


 たったの1度とはいえ「入宋」という箔をものにし、さらには天台座主明雲という叡山の最高権力者から目をかけられながら、その19年間に栄西の名が都の耳目をそばだてたのは、文治元年(1185)に後鳥羽天皇の勅命により神泉苑で降雨を祈って忽ち雨を降らし、この効験により天皇から「葉上」の号と、平頼盛の奏によるとされる「紫衣」を賜る栄誉に浴した事ぐらいである。


 このような輝かしい経歴を持ちながら、栄西は何故19年もの長きに亘って備前筑前に留まり、そして何故、齢47歳にして再び入宋を志すに至ったのか、以下に独断に基づく私の推測を展開してみたい。


 私の見るところでは、栄西の1度目の入宋と2度目の入宋では求めるものが大きく異なっていた。であるからこそ、2度目のそれは、1度目の半年間の滞在と比較しても余りにも長い5年の歳月を要したのである。


そこで、先ず、最初の入宋を志すに至った理由を当時の時代背景をざっくりと描きながら探ってみたい。 


 栄西が生まれた永治元年(1141)は近衛天皇が即位した年であり、平氏が全盛に向かって駆け上がり、他方で、朝廷と共に「王法仏法」の一翼を担う仏教界は、南都・北嶺、山門(延暦寺)・寺門(園城寺)の争いを展開し、挙句に神輿や神木を掲げて大挙して朝廷に押しかけて強訴を繰り返すなど、鎮護国家を祈るべき本来の役割を放棄して武力闘争に明け暮れていた事は既に述べた。


 実際に栄西が生まれた翌年の康治元年(1142)には山門(延暦寺)・寺門(園城寺)の争いで寺門の衆徒が山門の堂塔を焼却し、久安元年(1145)年には興福寺が金峯寺だけでなく東大寺とも事を構え、その翌年には再び山門・寺門が争闘し、更にその翌年には延暦寺の衆徒が神輿を奉じて大挙して入洛し平忠盛・清盛父子を訴える一方で、彼らのトップである天台座主行玄を放逐してその住房を打ち壊し、その翌年の久安4年(1148)には今度は興福寺の衆徒が大挙して入洛して強訴に及びぶという、仏教界が大荒れに荒れた状況の中で、備中国で8歳を迎えた栄西は父の勧めで天台の教義を学習し、他方、備中国からほど近い美作国で生まれた10代前半の法然が叡山に登って受戒していた。


 そして栄西が14歳で落髪して叡山の戒壇院で受戒した翌年の久寿2年(1155)には、世間の予想を大きく裏切って立太子を経ない29歳の後白河天皇が即位し、この即位のいきさつを引き金に保元の乱平治の乱が間をおかずに起こり、その戦後処理として従来の「遠島」「配流」などといった生ぬるい処罰ではなく、300年ぶりに「死刑」が復活して血生臭い「武者の世」の到来を世間に知らしめたのであった。


   

女車で清盛邸に脱出する二条天皇(日本の絵巻『平治物語絵詞』)より。


 「僧兵が先か武士が先か」、これはよく議論になるテーマであるが、僧兵対策の傭兵として白河・鳥羽法皇平氏を、摂関家は源氏を重用する中で、武士は存在感を益々強めて中央政権への階段を登るまでになったと私は思っている。


 このような「武者の世」の到来が、衆徒の闘争を一層先鋭化させたことは間違いなく、院政期にはいると、衆徒は末社関係にある神社の神人と結託して(例:延暦寺の僧は日吉社の神人と、興福寺の僧は春日社の神人と)、神輿を奉じて数千人規模で嗷訴を繰り返し、公家体制を脅かすだけの戦闘力と経済力を備えるまでになり、栄西が身を置く仏教界、特に延暦寺は学徒よりも袈裟の下から鎧を覗かせ寡頭頭巾に刀杖(とうじょう)を携えた僧兵が跋扈する世界に変貌していた。




武装した延暦寺の大衆『法然上人絵伝 中』より。

 そのような状況下に、叡山を去った法然は仁安元年(1166)に浄土宗を開き、方や栄西は新たな信仰を模索して入宋を志し、赴いた筑前の宋海商や通事から「宋国で禅宗が盛んなこと」を聞き、仁安3年に28歳にして入宋を決行する。