建久9年(1198)正月、4歳の為仁親王(土御門天皇)に譲位した19歳の後鳥羽天皇は上皇として専制政治に乗り出す。
その一方で正治元年(1200)に応制百首(※1)とも言うべき『正治初度百首』を企画して惟明親王・守覚法親王・式子内親王・左大臣良経・内大臣通親・前天台座主慈円を含む宮廷歌人に詠歌を求め、初めて皇族並びに大臣・天台座主及び宮廷歌人を包括する仙洞花壇の構築に着手した。
他方で、後鳥羽上皇から詠進を求められた式子内親王にとっては、それまで一度も宮廷や大臣家の催す歌合・歌会等の公の場に参加することもなく、俊成や定家など限られた範囲にしか知られていなかった自らの歌人としての存在感を歌壇に一気に広める画期的な出来事となった。
さらに、仙洞歌壇の人々にとっては、『正治初度百首』における式子内親王の詠歌から実に25首が『新古今和歌集』に入集し、同百首歌から17首入手した良経、6首の讃岐と家隆、3首の定家を大きく引き離した結果は、式子内親王の力量を改めてめて思い知る事になったのではないか。
だが、悲しむべきは、その翌年の建仁元年(1201)正月25日に式子内親王は53歳で病没し、奇しくも『正治初度百首』が彼女の最後の百首になった事である。
ここでは式子内親王の『正治初度百首』の中から『新古今和歌集』に入集した次の4首を採り上げてみたい。
新古今和歌集 春下 149
百首歌中に
花は散り その色となくながむれば 空しき空に春雨ぞ降る
新古今和歌集 秋下 534
百首歌たてまつりし秋歌
桐の葉も 踏みわけ難くなりにけり 必ず人を待つとなけれど
新古今和歌集 秋下 474
百首歌中に
跡もなき 庭の浅茅にむすほぼれ 露の底なるまつ虫の声
新古今和歌集 春歌上 巻頭三首目
百首歌たてまつりし時 春の歌
山深み春とも知らぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水
因みに『新古今和歌集』の巻頭歌は摂政太政大臣良経、巻頭二首目は後鳥羽上皇の詠歌である。
ところで『新古今和歌集』は源通親・藤原有家・藤原定家・藤原家隆・藤原雅経の5人の撰者の推選を元に後鳥羽院の判断で入集歌か決められているが、一部の伝本に伝わる「撰者名注記」(新古今和歌集のそれぞれの歌について、撰者5人うちの誰が撰んだかの注記)によると、先に掲げた歌の春下・149と秋下534は、5人の撰者の内の3人が、秋下474は定家のみが、そして巻頭三首目は雅経のみが推薦しており、定家も見過ごした巻頭三首目を推選した雅経の目の高さが窺える。
(※1)応制百首:天皇の命により与えられた課題に基づいて宮廷歌人たちが詠進する百首歌。12世紀初めの『堀河百首』を嚆矢とする。これを境に和歌は題詠が主流となっていった。