新古今の周辺(20)鴨長明(20)瀬見の小川(2)生死の余執

11 瀬見の小川のこと(後半)

その後、長明が賀茂社奉納歌合で「瀬見の小川」を詠んだことを知った禰宜の鴨祐兼(※1)から「『石川や・瀬見の小川』のような由緒のある歌は晴れやかな歌合か、国王や大臣などの御前で詠進すべきもので、大して意義のない歌合で詠むのは無念な事である」と批判をされていたところ、

隆信朝臣(※2)が建仁2年(1201)の千五百番歌合(※3)の「恋」の題で
石川や せみの小川の流れにも 逢ふ瀬ありやと みそぎをぞする
と詠み、

さらに、長明の「瀬見の小川」の歌の判定を保留した顕昭が建久4年(1193)の左大将家の百首歌合(※4)で
石川や せみの小川に斎串(いくし)立て ねぎし逢ふ瀬は 神にまかせつ
と詠じたことから、

鴨祐兼が「わたしが思った通りになったではないか。お前(長明)は自分が最初に瀬見の小川を詠んだつもりでいるかもしれないが、こうなっては後世に誰が初めに瀬見の小川を詠ったのか誰も知らなくなるだろう」と残念がって長明が不本意な気持ちでいたところ、

新古今集に長明の詠んだ歌が入ることになり、「瀬見の小川」を最初に詠んだのがこの私であることを知っている人は多くないのに選んでくれた人がいて、新古今集に私の歌が十首入集したことは身の程を過ぎた面目であるが、とりわけ「瀬見の小川」が採用された事は生死の余執(※5)ともいえるほど格別の喜びである。ああ、役にも立たない事だな。

と、長明は大感激しつつも、最後にどこか冷めている気分を吐露して遁世者の面目を保っている。

ところで、長明は触れていないが、隆信が千五百番歌合で「せみの小川」を詠んだ時の判者はまたしても顕昭で、彼は10年近く前の左大将家の百首歌合で詠んだ自分の「せみの小川」が先行している事を盾に隆信の歌を負けとしている。


(※1)鴨祐兼:生没年未詳。下鴨社の禰宜祐季の息子。下鴨社の禰宜となり正四位に至る。『源家長日記』は長明が後鳥羽院の意向で河合社の禰宜にされようとしたとき祐兼は自分の長子祐頼をさし措いて長明がその任に就くのは神慮にもとると猛反対し、これが長明出家の要因と記している。

(※2)隆信朝臣藤原隆信。藤原長門守為経(寂超)の息子、母は美福門院加賀で定家の異父兄。右馬権頭等を経て右京権太夫正四位に至る。和歌拠所の一人。似絵(肖像画)の名手。享年64歳。
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(※3)千五百番歌合(せんごひゃくばんうたあわせ):建仁1年(1201)、新古今集撰進の院宣に先立ち、後鳥羽院が発企して院以下30人の歌人が各々百首を詠じて千五百番とした最大規模の歌合。判者は後鳥羽院以下10名。

(※4)左大将家の百首歌合:建久3年(1192)に計画が始まり、当時左大将であった藤原良経の家で催された歌合。四季五十首、計百の題が出され、十二人の歌人が詠進し、釈阿(藤原俊成)が判者を務めた。この時顕昭が判定に異論を唱えて「顕昭陳状」を提出した。

(※5)生死の余執(しょうじのよしつ):死後になお残る執着

参考文献: 『無名抄 現代語訳付き』久保田淳 訳注 角川文庫