源頼政は大小取り混ぜて様々な歌合に積極的に参加して歌人としての名を広めたとされているが、そのなかでも主なものを挙げると下記のようになる。
1 丹後守為忠朝臣家百首
2 木工権頭為忠朝臣家百首
3 右衛門督家歌合 久安5年6月
4 中宮亮重家朝臣家歌合 永万2年
5 太皇太后宮亮平経盛朝臣家歌合 仁安2年8月
6 住吉社歌合 嘉応2年10月9日
7 建春門院北面歌合 嘉応2年10月
8 右大臣家歌合 治承3年10月
ここでは、頼政が77歳で敗死する前年の治承3年(1179)に息子の仲綱とともに参加した右大臣家歌合を採りあげてみたい。
この歌合は当時の右大臣九条兼実邸で催されたもので、兼実は自らの日記『玉葉』の治承3年10月18日付で「此日密々歌合也」と記している。
上記によると、この歌合は作者20名が各題10首ずつ計200首詠んだ歌のなかから秀逸60首を選んで番えた「撰歌合」の形で行われたもので、撰者の藤原俊成は出家の身でかつ撰者であったことから、撰歌や結審の場には列せず後日の判審であった。因みにこの時の兼実は38歳、撰者の藤原俊成は66歳であった。
以下にこの歌合の概要と源頼政と息子仲綱が関わった歌と勝敗を抜粋する(判詞は省略)。
【題】 霞 花 子規 月 紅葉 雪 祝 戀 旅 述懐
【歌人】
左方:女房(兼実公) 皇太后宮大夫入道(俊成) 季經朝臣 隆信朝臣 行頼朝臣
師光 良清 俊恵 寂蓮 別當局皇嘉門院女房
右方:大貮入道 源三位頼政 經家朝臣 基輔朝臣 資隆朝臣 仲綱 資忠 顕昭
道因 丹後右府女房
≪2番≫ 左勝
左 女房(兼実公) 霞しく春の潮路(しほじ)を見わたせば みどりを分(わく)る沖(おき)つ白浪(しらなみ)
右 源三位頼政 あづま路(ぢ)を朝たちゆけば葛飾(かつしか)や 眞間(まま)の繼橋霞(かすみ)わたれり
≪11番≫ 右勝
左 俊恵法師 てる月の澄(す)むべき夜半になりぬれば 雲も心はありけるものを
右 源三位頼政 遠方(をちかた)や朝妻(あさつま)山に照(て)る月の 光(ひかり)を寄
(よ)する滋賀の裏波(うらなみ)
≪19番≫ 右勝
左 季經朝臣 君が代をいかに數(かぞ)へむ世中に 數に足(た)るべきものしなければ
右 源三位頼政 住吉(すみよし)の神もしるらめ寄(よ)る浪の 數かぎりなき君が御代をば
≪24番≫ 右勝
左 隆信朝臣 旅寝(ね)する室(むろ)の刈(かり)田のかり枕 鴫(しぎ)もたつめりあけぬ
この夜は
右 源三位頼政 宮古(みやこ)へは今(いま)もことづけやるべきに 宇津(うつ)の山べに
逢(あふ)事ぞなき
≪3番≫ 持(引分)
左 寂蓮 たちかへり来(く)る年なみや越(こ)えぬらん 霞かかれる末(すえ)の松(まつ)山
右 仲綱 満(み)つ潮(しほ)にかくれぬ沖の離(はな)れ石 霞(かすみ)にしづむ春のあけぼの
≪27番 ≫ 左勝
左 女房(兼実) 日を經(へ)つつ都しのぶの浦(うら)さびて 浪よりほかの音づれもなし
右 仲綱 宮城野の木(こ)の下(した)露を打(うち)はらひ 小萩かた敷(し)きあかしつるかな
≪30番≫ 持(引分)
左 女房(兼実) 寝(ね)ざめして思(おも)ひつらぬる身の憂さの 數にとふとや鴫(しぎ)の
羽(はね)がき
右 仲綱 ふけにけるわがよのほどは元結(もとゆひ)の 霜を見てこそおどろかれけれ
【主だった作者の勝敗結果】
左方 女房(兼実)勝3持2 隆信朝臣 勝1持2 俊恵 勝1持1負3
寂蓮 持1勝2 皇太后宮入道(俊成)勝1持5
右方 源三位頼政 勝2負2 仲綱 持2負1 顕昭 勝1負3 道因 持3負1
参考文献:『人物叢書 源頼政』多賀宗隼 日本歴史学会編集 吉川弘文館
『日本古典文學大系74 歌合集』谷山茂 萩谷朴 校注 岩波書店刊行