後白河院と寺社勢力(66)渡海僧(10)栄西4 乱世の流儀2 清

 ここで平清盛日宋貿易に触れたいが、遣唐使の停止以来諸外国との国交を断った朝廷が大宰府を唯一の窓口にして私貿易を管理していた事は前回述べた。(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20110131) 


 嘉応2年(1170)平清盛が福原の別荘に後白河院を招いて宋人を引見させたことを、右大臣九条兼実は「このような事はわが朝廷では延喜以来なかったことで天魔のなすところか」と『玉葉』に記し、清盛はもとより唯々諾々と清盛の誘いに乗った後白河院の軽率さをも非難した。


 その2年後の承安2年(1172)9月に、宋朝から後白河院太政大臣清盛に贈物が届けられた際の牒状の「賜日本国王」の文言が公卿達の間で物議をかもし、「賜」は国の体面に関わる事であるから贈物は返却し返牒には及ばないという意見が大勢を占めた。


 それに対して平氏日宋貿易による巨利を独占するために、大宰府から瀬戸内を含む隠岐・若狭・因幡・但馬・丹後・備前・讃岐・備前・美作・播磨等の国司平氏で独占するなど着々と手を打ち、清盛に至っては後白河院好みの工芸・美術品入手の必要性も重なって、宋船をさらに都近くに引き込むために福原(今の神戸市兵庫区)の外港大輪田泊(おおわだのとまり)を日宋貿易の着港とすべく修築に着手していた。


 そんな清盛にとって、宋朝からの贈物と牒状は願っても無い事であり、承安3年(1173)3月に宋国に返牒を与えたばかりか、贈物への答進物として後白河院は染革三十枚を収めた蒔絵の厨子一脚と砂金百両を納めた手箱一、清盛に至っては武器ともいえる剣一振と武具を入れた手箱一を贈って九条兼実を始めとする保守派の神経を逆なでしている。


何故、後白河院平清盛九条兼実を始めとする保守的な公卿との間にこれほどの温度差があるのか。


 当時の宋朝の国運は下り坂に向かい、国運挽回策の一つとして海外に対しても国書を盛んに送って入貢を促し国威の浮揚を図ろうとして、わが国に対しても積極的に商船を渡航させて皇帝からの国書もしばしば送り、白河天皇在位14年の間には宋商船の来航が9回と記録されている。


 それに対してわが国は、遣唐使停止以来外国との国書の交換や外国使臣の受け入れをしないことを国法と定め、宋からの国書に返書を送ることはなかった。九条兼実が「延喜以来なかった」と嘆いたのはそういう意味であり、高貴な者が外国人と対面する事は「恥ずべき事」とされていたのだ(因みに延喜とは醍醐天皇朝の年号で901年〜923年を指す)。


 とはいえ、当時は美術・工芸・典籍などの貴重品だけでなく、宮廷儀礼や内裏・公家の室内・室外装飾・唐衣など唐物は貴族の生活に深く浸透し(下図参照)、唐物入手に関しては平家に全面的に依存する状態になっていた。


  

源氏物語「胡蝶」の紫の上の舟遊びに登場する唐船を模した船と装飾の龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)、
「『源氏物語色紙絵』土佐光吉筆(京都国立博物館蔵) 別冊太陽 73年夏号より」


唐文化の影響を強く反映した「『平家納経 提婆品』(厳島神社蔵)院政期の絵画展カタログより」


 日宋貿易を積極的に進めるには人的交流の活発かも不可欠で、重源の入宋三度、栄西の入宋二度はこのような時代背景のもとで実現したのである。


参考文献は以下の通り

『日本の歴史7 武士の成長と院政』下向井龍彦著 講談社学術文庫

『日本の歴史6 武士の登場』竹内理三著 中公文庫