後白河院と寺社勢力(65)渡海僧(9)栄西3 乱世の流儀 1 宋

 公家から武士へ、平家から源氏へと支配者が移り変わる激動の時代に、備中国吉備津神社の一神官の出に過ぎなかった栄西が、二度の入宋を経て権僧正まで上り詰めて75歳で入滅した生涯は「乱世の処世」として見事という他はなく、そこで、一体何が栄西をここまで押し上げたかを探ってみたいが、何といっても栄西が世に出る上で大きく物を言ったのは28歳での仁安3年(1168)の6ヶ月に亘る入宋と、47歳での文治3年(1187)の5年に近い滞在という「2度の入宋」経歴である。


 ところで栄西が生まれた永治元年(1141)は近衛天皇が即位した年であった。白河院による院政開創以来56年目にあたり、律令政権・公家政権の崩壊前夜でもあった。余談であるが自らの天皇への道を断たれた雅仁親王後白河院)が今様に狂い始めたのもこの頃であったとされる。

 
 自ら出家を希望して13歳で叡山に上り14歳で受戒出家して天台の教義を学んだ栄西であったが、上層は宮家や摂関家出身者が独占し、下層は僧兵による寺門間争いや強訴に明け暮れる仏教界のあり方に疑問を抱き、日本の仏教を建て直すには大陸に渡って仏教本来の規範を求めるしかないのではと叡山から下山して筑前に活動の場を移しながら入宋を志すようになる。


 しかし、しかし承和5年(636)を最後に遣唐使の派遣が途絶え、それ以降の平安期の入唐(にっとう)・入宋僧たちは、全て、中国人海商の貿易船に便乗して渡海せざるを得なくなり、晩年の『入唐縁起』に栄西が著したように、彼の入宋が成尋(じょうじん)の入宋以来78年目、古くは寂照(じゃくしょう)のそれより149年以来絶えて久しい大事業であり、莫大な渡航費と航海事情からしても命がけであったのだ。因みに成尋、寂照は共に彼の地で入滅して帰国を果たしていない。


 また日宋貿易ありさまは、11世紀前半頃までの制度では中央から交易唐物使という貿易管理官が派遣されていたが、11世紀前後半以降になると国家財政の破綻により中央から交易唐物使の派遣は行われなくなり、そのため貿易管理の窓口が唯一大宰府に制限された事を考えると、宋に関する知識・情報入手並びに渡航ルートは極めて制限され、ごく限られた者にしか宋への道は開かれていなかった。


 しかし、栄西にとって幸運であったのは、鎮西(九州)一帯に強力な影響力を持つ宗像大社の大宮司・宗像氏と栄西の生家・吉備津神社の神官・賀陽(かや)氏とが親戚関係にあった事から、大宰府を拠点とする宋人海商とのネットワークに接することが出来、さらにその中の豪商王氏と宗像氏が姻戚関係にあったことから資金面と渡航ルート確保の面から一気に入宋の可能性が開けたのである。


 博多に拠点をおく宋海商たちの中には、大宰府による管理貿易体制の許で自身の交易を有利に進める為に、朝廷・官人・寺社などと濃密な関係を築いたり、大宰府官人を通して中央貴族層との接触を図る者がいただけでなく、11世紀後半以降になると日本人女性を母とする宋海商や日本人女性と婚姻関係を持っ宋海商も出現していた。


 このよおうな環境の中から、栄西が繋がりを持ったその他の宋海商には、栄西に中国仏教事情を教示した博多津で海商を営む李徳昭(りとくしょう)や張国安(ちょうこくあん)、栄西の帰国船を提供した楊三綱(ようさんこう)たちの名前が取沙汰されている。


  

上図は入唐僧と宋海商 「図解人物海の日本史2日宋貿易元寇」(毎日新聞社)の表紙から。


話はそれるが、第一回の入宋において栄西が明州で重源と出会い、彼と一緒の船で帰国している事は甚だ興味深い。


参考文献は以下の通り

栄西 喫茶養生記』 古田紹欽著 講談社学術文庫


栄西」多賀宗隼著 日本歴史学会編集 吉川弘文館


「日本の歴史6摂関政治と王朝文化」加藤友康編 吉川弘文館