『紫式部日記絵巻』の「産養」の場面は、藤原道長の娘・中宮彰子の皇子(後の後一条天皇)出産を寿ぎ、土御門殿(道長の屋敷)で煌々とした松明を(たいまつ)をともして夜通し賑々しく繰広げられた様のひとコマが描かれている。
(『院政期の絵画』カタログより)
また、後白河天皇の即位に伴い、絶えて久しい宮中行事の復活を意図して描かせた『年中行事絵巻』の「後宴後の御遊」の場面では、宮中の年初の重要な行事である内宴を終え、ひとまず公卿と文人が退去した後に、帝以下殿上人が席を改めて楽器演奏などを明け方まで楽しむ様を描いているが、ここでも煌々と照らす松明が描かれている。
(『日本の絵巻8年中行事絵巻』中央公論社より)
このように、古代から中世にかけて、色事はともかくとして、宮廷の政(まつりごと)・行事・遊びに至る主な活動は悉く夜に催され、それに不可欠な松明を宮中に貢進していたのは洛北の小野山供御人たちであった。
さらには藤原定家により「秋の日に都を急ぐしずのめが帰るほどなきおほ原の里」と歌われた大原女の住む大原郷は、薪炭の供給地としても名高く、その中でも小野山供御人は主殿寮(※1)の供御人として炭や続松(※2)を朝廷に貢進して、その見返りに種々の免税や市中売買の特権を得ていたのである。
久安5年(1149)に小野山供御人と主殿寮の年預(※3)が争った時、京に召し出された小野山供御人は70余人とされているが、およそ半世紀を経た建久7年(1196)、この事件に言及して供御人が提出した連署起請文からは、京に召しだされた70余人の供御人のうち張本人と見らる6人が検非違使に引き渡されたが、小野山供御人の構成は「長」となるものが、白炭焼御作手10人、筥松御作手10人、薪御作手10人、中宮御作手6人、皇太后宮御作手6人、太皇太后御作手6人などと、6人〜10人程度の集団を束ねて、天皇・中宮・皇太后宮などに直属して炭・続松・薪などを奉仕していた事が様子が見て取れる。
(※1)主殿寮(とものりょう):律令制で宮内省に属し、行幸の輦輿(れんよ:貴人の乗物)、宮中の帷帳(いちょう:とばり)、殿庭の掃除、灯燭の配給などを司った役所。
(※2)続松(ついまつ):ツギマツの音便。松明(たいまつ)のこと。
(※3)年預(ねんよ):臨時に1年を限って職員が他の役所の事務を担当した。
参考資料は以下の通り、