後白河院と寺社勢力(43)商品流通と政治権力(1)生魚

 中世初期商業を担った供御人・神人・寄人たちは、扱う商品が持つ固有な特質に強く拘束されていたばかりか、「商品流通」の支配を目論む政治権力との葛藤もからんで、近世商人にはみられない独特の行動を展開することになる。代表的な商品を通してその有様をみてみたい。

1.源平合戦と魚商人

 天皇の食卓に供する魚・鳥は贄(にえ)とよばれ、6世紀末の用明天皇の御世より御厨子所(※1)供御人が贄の献上を担っていたが、御厨子所供御人が衰退して以降は、山城・大和・摂津・河内・和泉・近江の六カ国が魚・鳥の献上を担い、六カ国は各々に課せられた献上品を内膳司(※2)に納め、内膳司は蔵人の指示に従ってこれらを進物所・御厨子所に送っていた。

 ところが 建久3年頃(1192)、源平争乱に伴う混乱から朝廷への生魚の調達に支障を来たし、さらに京の都市機能の荒廃に頭を痛めた御厨子所は、近江の琵琶湖畔の粟津・橋本で淡水魚を捕魚する漁師を京の一番繁華な六角町に呼び寄せ、売買店舗四宇(4軒か)を貸与して生魚売買の権利を与え、その見返りに贄の役割を負わせた事から「六角町四宇供御人」が誕生する。

 この六角町四宇生魚商人は後に内蔵寮(※3)に属し、元弘3年(1333)の『内蔵寮領等目録』には「六角町生魚供御人、毎月、人別に、鯉一喉(一匹のことか)、人数十数人、之れ在り」と記され、さらに同目録には「六角町生魚商人」と並んで「姉小路生魚商人」の名前も見られ、この両者が内蔵寮保護を受けながら鎌倉時代の京の生魚の供給を独占していたと見られている。

  後に六角町の60人の生魚商人の全ては女性であったと伝わっているのは、彼女たちは供御人である夫の漁師から淡水魚を買って商っていたからであろう。(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20100709


  



(※1)御厨子所(みずしどころ):内膳司に属し内裏後涼殿の西廂(にしびさし)にあって食事をととのえる所。

(※2)内膳司(ないぜんし):律令制で、宮内省に属し、天皇の食事の調理・試食をつかさどった役所。

(※3)内蔵寮(くらりょう):律令制中務省に属し、天皇の宝物や日常品の調達・保管・共進などを司った役所。


2.桂の鵜飼

 ところで、淡水魚の中でも鮎については特定の漁民集団が指定されて国(国司)を介せず直接宮廷官司に属していたようだがはっきりした事は分かっていないようだ。

 その中で、朝廷への鮎の献上で名高い「桂供御人」を取上げると、当初彼らは「桂御厨(※4)鵜飼」として四衛府(※5)に属していたが、それに伴う検非違使丁から課される「使丁役」を逃れるために御厨子所所属の「桂供御人」となり、丹波国宇津荘における鵜飼場の権利が認められている。

 これは、京西部の桂に拠点を置く鵜飼集団が、桂川水系に限定されてはいるが、国境を越えてはるか上流を遡る丹波の国までの漁業権を得たことを意味する。


(※4)御厨(みくりや):古代・中世、皇室や神社の供御の料を献納した、皇室・神社に属する領地。古代末には荘園の一種となった。

(※5)四衛府(よんえふ):奈良・平安時代に禁裏の警備を司った役所で、左・右衛門府、左・右兵衛府から成る。


3.平重盛の生魚対策

  ところで、天皇の宝物や日常用品の調達・保管・供進をつかさどる内蔵寮(くらりょう)の長官・内蔵頭に就任した平重盛にとっても生魚確保は悩ましい問題であった事が、応保元年(1161)に河内国大江御厨に出した7条の要請から読み取れる。

 この要請には、御厨の作人が権門の威を借りて供御を提供しない事態への対応策や、御厨本田の中の実りの悪い田を実りの多い田に交換することなどが盛られているが、中でも「延喜5年(905)に発した牒(公文書)に則って国中の池・河・津を御厨領にすること」が注意を引く。

 このことは、延喜5年に牒が発せらた時から河内国中の池・河・津が御厨領になったはずであったが、その後それが守られなくなった事を物語り、朝廷つまり国家権力の衰退を示している。果たして重盛の要請は聞き入れられたのであろうか。


4.御厨供御人から神人へ

 さらに国家権力の衰退を示す例として、摂津国長緒御厨の網人が賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ:通称下鴨神社)の神人になった例が挙げられる。


 彼ら網人が、かつて小一条院(※6)父子領地として伝領された頃は、摂津国長緒御厨供御人であったが、彼らは検非違使丁の課役を逃れるために、藤原教通の二条関白家の散所(※7)の身分を獲得し、応徳元年(1084)に賀茂御祖神社(下賀茂神社)が教通の娘・歓子から長緒御厨網人を譲られ支配を受け継いだ時の人数はわずか38人、在家は20宇に過ぎなかった。


 その後の元永元年(1118)賀茂御祖神社が長緒網人に順番に社役を務めさせるようになると、長緒御厨は神人と問人(もうと)の二階層に区別されていたが、神人が300人、問人が200人に達し、賀茂御祖神社に属して34年でこれだけ長緒網人が膨れ上がっていたことになる。


 このようにして爆発的に増えた長緒網人集団は自らを賀茂御祖神社の供祭人(※8)であると称し、神威を借りて海辺諸国を舞台に濫行を働くことになる。どうやら、長緒網人集団にとっての実利は天皇支配直下で検非違使丁役を課せられる御厨供御人よりも、神の威を借りて旨い商売が出来る神人になることであったようだ。


(※6)小一条院三条天皇の第一皇子。藤原道長の圧力により皇太子廃位宣言にに追い込まれるが、その見返りに道長は美しい娘・寛子を后に与え厚遇した(994〜1051)。

(※7)散所(さんじょ):古代末から中世、その住民が年貢を免除される代わりに権門寺社に属して掃除や土木・交通などの雑役に服した地域。また、その住民。

(※8)供祭人(くさいにん):祭りの際に神仏に物を供える役を担う下級神職


参考文献「日本の社会史第6巻 社会的諸集団」 岩波書店