後白河院と寺社勢力(52)商品流通と政治権力(10)炭・続松・材

  延暦13年(794)の平安京造営時に資材の運搬に用いられるほど川幅が広かった堀川は、淀津や丹波から伐採された材木が五条に荷揚げされて五条堀河に材木市が建つようになると、祇園社神人からなる堀川材木商人が京の建築資材を独占するまでになるが、京の材木商の繁栄にはいくつかの要因が考えられる。


 先ず、桓武天皇の東寺・西寺の建立から、「王法仏法」を国家支配のイデオロギーとして打ち出した院政期にかけての官寺造営は隆盛を極め、白河天皇の法勝寺、堀河天皇の尊勝寺、鳥羽天皇最勝寺崇徳天皇の成勝寺、近衛天皇の延勝寺、後白河院の母・待賢門院の円勝寺と「六勝寺」と称せられる御願寺建立でその頂点を極めた。


 また、後白河天皇が即位して側近の藤原信西が最優先で取組んだ内裏の大修復や、木曽義仲後白河法皇御所の焼討ちにみられるように、院政期から鎌倉時代にかけては源平争乱や盗賊の襲撃で御所や屋敷の焼失が頻繁に生じ、これらを再建するための材木の供給は追いつかず価格は鰻上りで、京の材木商は大いに繁盛したと見られる。 


 次の図は、その修復なった大内裏(上図)と、木曽(源)義仲の焼打ちにあって消失する法住寺殿(下図)を描いたものを、『日本の絵巻8年中行事絵巻』(中央公論社)の天皇が太政天皇(父帝)の御所に行幸して拝賀する「朝覲行幸」の巻からピックアップしてみた。


   

大内裏・紫宸殿の南面で女官を従えて鳳輦(ほうれん:天皇の乗物の美称)を待つ天皇



後白河上皇の御所・法住寺殿に着後した天皇の鳳輦。


 そんな中で、前回取り上げた小野山供御人は炭・続松だけを扱っていたわけではなく、(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20101011
京に出て材木の売買も手がけ、永和3年(1377)に主殿寮の年預から材木貢進を乞われた時には拒否し、主殿寮年預から「代々の年預が必要に応じて材木の提供を命じるのは先例になっている」と申し出の正当性を主張されている。


 さらに、主殿寮年預が「過日の京下辺の火災の際には、毎夜数十荷の材木を京に運ぶ夜中売買を行っていただけでなく、洛中の材木業者を小野山に呼び寄せ、あるいは夜毎に京に出て材木を売っている事は既には露見しておる」と小野山供御人を非難している事から、材木商の主導権は京近郊からやってくる買付人の側にあったことが窺がえる。


 ともあれ、材木供給地は小野山だけはなかったことや、祇園社神人が組織する堀河材木座などの存在と併せて考えると、小野山供御人が主殿寮に対して材木の京市中での営業権までは主張できなかっただけではなく、主殿寮も材木商人を支配下に組み込めなかったなかったのではないかと思われる。
 

参考資料は「日本の社会史第6巻 社会的諸集団」(岩波書店