後白河院と寺社勢力(50)商品流通と政治権力(8)酒3 美酒は寺

 酒造りは神・仏前への供え物として、あるいは正月の自家消費のために神仏習合の寺院から始まったが、有望な収入源として次第に商業化して大規模になり、真言宗天野金剛寺、河内の歓心寺、奈良の興福寺、近江の百済寺などが積極的に酒造りに取組み、寺院生産の酒は中世の特色となっていった。


 中でも真言宗天野金剛寺が作る「天野」が名酒として広く知られ、『看聞御記』(※1)など当時の日記によれば、公家や武士の酒宴に度々用いられ、「天野比類なし」と絶賛されただけでなく、金剛寺に残されているいる文書には、織田信長豊臣秀吉からの礼状だけでなく、味や香りに対する注文などの書簡が含まれているそうで、酒造家としての金剛寺の存在感が、いかに際立っていたかが窺がえる。


 さて、私にとって全く未知の世界である酒造についての知ったかぶりを許していただくなら、日本酒が濁り酒から清酒(すみざけ)に転換するうえで、米と麹の両方に精白米を用いる「諸白」への転換、加えて「段掛け」、さらに酒が腐敗しないように低温(摂氏60度位)で加熱殺菌する「火入れ」など、新技術の開発や在来技術の高度化が避けられなかったとされているが、それらの大半は寺院から生まれている。


 それを示す貴重な記録は、奈良・興福寺多聞院の僧による『多聞院日記』の永禄11年(1568)の記事が「火入れ」の初見とされ、それは、パスツールの低温殺菌法の発明よりも300年早く開発された事になり、常陸茨城県)の大名・佐竹家の『御酒之(ごしゅの)日記』(1400年頃)に記された「ねりぬき、きかせの煎じ様」として低温で約1ヶ月毎に火入れする技法と併せて、明治時代に来日したお雇い外国人技師たちを驚かせたとされる。


 では何故、酒造の技術革新が、朝廷の造酒司支配下の酒造供御人からではなく、寺院から生まれたのであろうかにメスを入れてみたい。


 先ず、僧侶の知識・教養を表すものとして、「寺社勢力の中世」(伊藤正敏 ちくま新書)から引用すると、鎌倉末期の比叡山僧光宗の『渓嵐拾葉集(けいらんしゅうようしゅう)』に、彼が比叡山で仏教以外に、武術・医学・土木・農業なども学んだ事を述べているが、鎌倉時代に漢字を書ける武士は少なかったが学侶で漢字をかけないものは一人もいなかったとされ、ここには寺院の文化・教養度の高さを裏付けられている。


 次に、悪僧の訴訟介入を述べた(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20100522)で紹介した「東寺百号文書を読む」では、院政期から鎌倉・室町時代にかけて寺院は自らが訴訟の当事者として闘った文書を数多く収めているが、その中から悪僧と呼ばれる者たちはその経験を専門知識と技術に高めて、「寄席沙汰」と呼ばれる訴訟に介入してている。 


 悪僧達は自ら属する寺院の利益だけではなく、自分の蓄財のためにも訴訟を有利に展開するための理路整然として説得力のある文章を書く術を習得していたのである。


 

(「東寺百合文書を読む〜よみがえる日本の中世」より)


 さらに、僧の際立った識字率の高さを示す例として、『冷泉家:王朝の和歌守展』カタログから、
「カタカナは僧侶の文字であった。9世紀始めに奈良の僧侶が経典を訓読するために、万葉仮名を省略した文字を付記した事に始まるという。早く記すために、字形の省略・簡略が進み完成した。また、漢文訓読用として漢籍に使われている。・・・・・後略」を引用したい。


 


 上記の引用からは、僧侶は先ず経典が読めなくてはならないから必然的に彼らの識字率が高くなるということと、「カタカナ」を発明したのは僧侶ではなかったか、という事の二つが読み取れる。


 さらに下記は同じく『冷泉家:王朝の和歌守展』カタログからの「三井寺本」。天台宗三井寺園城寺)の僧が書写した一連の歌書類や所持していた本からなっているが、大寺院の文化・教養水準の並々でないことが窺がえる。


 


 いずれにしても、寄沙汰という高度な専門性を必要とする中世の訴訟事件に介入し、かつ、最先端の技術を駆使して美酒を生み出す寺院とは、誇張を恐れずに言えば、、最先端の知識と技術を集積した中世の「マサチューセッツ工科大学(MIT)」と「ハーバード大学」を合わせたような存在ではなかったか。

 ともあれ、中世寺院が開発した酒造技術が大阪や伊丹に伝播して、その後、関東や東北にもひろがり、今日の酒造産業に大きな足跡を残した事は疑いない。


(※1)看聞御記(かんもんぎょき):伏見宮貞成親王によって室町時代前記(1416〜1448)に朝廷内の極秘事項から巷の風聞まで親王が見聞きした事を記録した日記。


参考資料は以下の通り、

「中世の光景」(朝日新聞学芸部編 朝日選書)

「寺社勢力の中世」(伊藤正敏 ちくま新書

冷泉家:王朝の和歌守(うたもり)展」カタログ