後白河院と寺社勢力(35)「自力救済」と「小さい国家」

 悪僧・神人や武力の輩に土地証書を寄進して、彼らの力を頼んで権利の代行を依頼する「寄沙汰」という自力救済が盛行した院政期とはどういう社会であったかといえば、中世が院政開始とともに始まったとの歴史観に立てば、それは正に激動の時代であったからといえる。


 土地が国家に属していた律令体制が崩壊するなかで、条件付で開墾地の永久私有を認める「墾田永年私財法」が天平15年(743)に制定されたことが、朝廷・大寺社・権門勢家・開発領主・農民入り乱れての荘園争いに拍車をかけ、その争いを通して新たな支配階級が台頭し、そこに、相次ぐ内乱、旱魃、飢饉、地震・大火が重なって、院政期は日本史上稀に見る混沌とした動乱の時代となった。


 ところで「寺社勢力の中世」(伊藤正敏 ちくま新書)において著者は「中世とは全体社会の中において国家が占める割合が最も小さい時代であった」との視点に立ち、国家の主要な柱である検断権(※1)、現在の警察権について次のように述べている。


○ 当時の検断権は朝廷の検非違使と幕府の六波羅が分担していたが、主たる機能は政府の安全を脅かす暴力を取り締ることにあり、
○ 実力行使による私的債権の取立てや庶民の殺傷事件などは検断権行使の範囲外であった。


 そうなると、警察を当てに出来ない土倉(中世の金融業の呼称)は盗賊に対しては自力で防御し、そのうえ債権の強制取立てのためにも自力で武装ことになり、そういう社会を「寺社勢力の中世」の著者は「獄前の死人訴えなくば検断なし」という中世の諺を引用して、「中世は自力救済の社会」であったと位置づけている。


 検断権が私人間に介入しないこのような状況は、おそらく、入り乱れた勢力争いの中で新たに台頭した勢力が安定した国家機構を形成するに至らない未成熟さの現れであり、さらには国家に介入されるよりは「自力救済をよしとする」庶民の風潮も関係していたのではないかと、私は勝手な憶測をしている。実際に京を始めとする畿内鎌倉幕府に対する反感は根強かったらしい。


(※1)検断権:中世、警察権・刑事裁判権のこと。また、それを行使する権利。


 下図は、当方が試みに「寺社勢力の中世」の記述を基に、現代と中世の「社会に対する国家の占める割合」を図式化したものだが、白い部分が「国家比率」を示すなら、青い部分はさしずめ「自力救済比率」を示しているとでも説明できそうである。


 


参考文献「寺社勢力の中世」(伊藤正敏著 ちくま新書