後白河院と寺社勢力(62)渡海僧(6)重源 6 運慶と快慶 4 

 【わが身五十余年を過ごし、夢のごとし幻のごとし。既に半ばは過ぎにたり。今やよろづをなげ棄てて、往生極楽を望まむと思う。たとひまた、今様をうたふとも、などか蓮台の迎へに与(あず)からざらむ】

これは後白河院が『梁塵秘抄巻十』に表明した極楽往生への強い強い願望であった。


 その後白河院法然上人から『往生要集』の講説を受けて感動し、自らの死に際しては法然上人の儀式に則って往生を願ってひたすら念仏を唱え、建久3年(1192)3月13日、寅の刻(午前4時)、床の上に端座して眠るがごとく66歳の命を絶えた事は既に述べた。(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20090919


 『往生要集』で著者の恵心僧都源信)は、「この世はこんなにも醜い苦の世界であるが、西方には阿弥陀浄土という美しく楽しい世界がある。さあ、この醜い世を厭離して美しい極楽浄土を願い求めよう」と呼びかけ、死後に阿弥陀浄土へ行く方法は『南無阿弥陀仏』と誦(ず)す事」と口誦念仏を説いた。


 この恵心僧都の口誦念仏をさらに発展させたのが法然上人で、「末法の凡夫には難しい修行や瞑想ではなく、極楽往生を念じただ口で『南無阿弥陀仏』と唱えて阿弥陀如来におすがりするだけでよい」とする専修念仏を主唱したことから、浄土教後白河院のような法皇から遊女・乞食に至るまで一気に広がり鎌倉仏教を代表する事になる。


 ところで、後白河院が乞い願った『蓮台の迎へ』を示す来迎像は、両脇に勢至菩薩観音菩薩を伴った阿弥陀如来が雲に乗って現れる形が基本だが、それを体現する『来迎三尊像』は、鎌倉時代以前は三尊とも座っているか、阿弥陀如来が座っているのが一般的であったが、鎌倉時代以降は三尊とも立つのが一般的になったという興味深い変化が見られる。


 鎌倉時代の代表的仏師・快慶の作品は40件ほど存在が知られているが、そのうち13件が『来迎阿弥陀立像』で、その線の美しい優美な阿弥陀像は後に「安阿弥様の阿弥陀仏」と称され大いに流行したとされる。


 下図の『阿弥陀三尊像』は安阿弥様の阿弥陀仏の代表ともいえる作品で、祈りで来迎者を迎えようとする勢至観音(向かって左)と、腰をかがめ前に差し出す蓮台で来迎者を迎えようとする観音菩薩(向かって右)の姿に、浄土教に心を重ねた快慶の創作姿勢が読み取れる。


     

  (『阿弥陀三尊像』光台院(和歌山)


 とりわけ、上右図の慈愛に満ちた観音菩薩像から思いおこすのは、土佐に流される法然上人に教えを請おうと舟で近寄る遊女を描いた「法然上人絵伝」の一こまである。芸だけでなく春をひさぐ遊女も蓮台の迎へに与かれるのかと。


  


(『法然上人絵伝 中』中央公論社より)


 「善人なをもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」との、法然上人から親鸞へと受け継がれた強烈なメッセージが浄土教には脈々と流れているのである。


参考文献は以下の通り、

写真を含めて『日本美術全集10 運慶と快慶』講談社より

梅原猛の[歎異抄]入門』 梅原猛 PHP新書