隠居Journal:大手町ビルの思い出(7)何時しか都電で神保町通い

大手町ビル内のオフィス勤務も慣れて気持ちにゆとりが生まれてきた頃、大手町ビルの日比谷通り口から都電が走っていることを知って、時々、退社後にそれに乗って、田舎者よろしく、あちこち途中下車して沿線風景を楽しんでいたが、その内に、子供の頃からの「本好き」「活字の虫」の読書欲を満たす古書店街の神保町に、退社時間後、都電に揺られながら向かうのが楽しみとなっていた。

 

あの頃の神保町は、古色蒼然とした幾つかの大学と古書店を軸に、あちこちの通りや露地裏に安食堂、珈琲専門店、ジャズ喫茶、名曲喫茶、パチンコ店や雀荘がひしめき、混沌として人間臭い街だった。

 

そんな街と行き交う人の醸す雰囲気と雑然とした独特の臭いが、地方の高校を卒業して東京での会社勤めを始めた「上京者」の疎外感と孤独を癒す作用をもたらしていたのではないかと、今にして思う。

 

 

ここで、優に半世紀を超えたおぼろな記憶から、当時の私の神保町「ウロウロコース」を掘り起こしてみたい。(※)括弧内の番号は上記地図の番号に該当。

 

先ずは、お目当ての本を求めて、古書店を探索した後の空腹しのぎに「キッチン・グラン」(1)で、80円のメンチカツ定食をよく食べた。

あの頃は大学生も、勤め人も、そして今ほどメディアに露出していなかった教授方も、一様に懐に余裕が無かったようで、天ぷら定食が100円台の「いもや」(青2)と共に、キッチン・グランは有難い店だった。

 

または、古書店で、お目当てや掘り出し物を見つけた時は、少しでも早く読みたい一心で、近くの喫茶店に駆け込み、珈琲を片手に、胸を時めかせてページをめくるのが常だった。店内では、私と同様に、買ったばかりの本の包装紙をもどかしそうにほどいている顔・顔・顔があった。

 

あの頃、私が良く駆け込んだ喫茶店はエリカ(4)や、ラドリオ(3)、李白(青6)である。神保町の喫茶店はそれぞれに特徴があり、エリカは濃い目の珈琲をユニホーム姿のマスターとおぼしき中年男性が丁寧に点ててくれ、ラドリオは詩の雑誌「ユリイカ」編集部の近くであったから詩人や文学者の溜まり場であり、李白は障子硝子に行燈型の和紙のスタンドが目印で、そして李朝の染付けで珈琲を味わえる、数寄者の店主を思わせる店であった。

 

時に職場の人間関係で屈折した気持ちを抱えたときは、書泉グランデの裏にある「ミロンガ」(5)で、タンゴにタップリ浸る事が多かった。当時の伝聞であるが、この店はアルゼンチン・タンゴのレコードの所蔵が数千枚とかで、タンゴ好きには知られた存在だった。

 

二十代半ばの若い女が、薄暗い喫茶店で泥臭いアルゼンチン・タンゴの音色に浸るのは確かに変わっているが、私は、中学生の頃から文化放送の「これがタンゴだ」という番組を、小さなラジオにかじりついて聴いた早熟なガキであったから、番組テーマ曲の「エル・ジョロン(泣き虫)」を初め「淡き火影に」、「エル・チョクロ」などを聞くと、高ぶった気持ちが自然に落ち着いてくるのだった。

 

こうした私の神保町との付き合いは、都電が廃止された後は徒歩で通い、その後のオフィス移転、更に2004年の定年退職を経て、今なお続いている。

 

      

  キッチン・グラン              エリカの店内

 

  

   ミロンガの店内          拍水堂のケーキ

 

   

      共栄堂のスマトラカレーと焼リンゴ