出家した寂蓮の信仰心をしる上で見逃せないのがこの歌合の「雑部十首歌」で、これは『法華経』(巻第十七)の「妙法蓮華経薬王菩薩本事本品第二十三」の中で、法華経が衆生の苦悩を救い多くの願いを充たす利益を12の喩えを元に詠んだもので、寂連はその12の喩えのなかから最初の「清涼の池の能く一切の・・・・」と最後の「炬(かがりび)の暗を除くが如く・・・」を除く10の喩えを題として詠んでいる。
ここでは第3の喩えである「裸なる者の衣を得たるが如く・・・」を題に詠んだ歌を採り上げたい。
千三百七十八番 左 良平
あかつきはよもの草木におくつゆのきよき光もこころすみけり
(現代語訳:夜明け前はいたるところの草木に露が置き 美しい光も心が清らかになることだ)
右 如裸者得衣 寂連
いまぞ思ふかたをか山のたび人も身をかくしけるむらさきの袖
(現代語訳:今こそおもわれることよ。片岡山の飢えた旅人の身体を覆った聖徳太子のお与えになった紫の御着物のことが)
ところで寂連のこの歌は『日本書紀』(巻二十三)などの多くの文献に記されている説話及び和歌を典拠として詠んだもので、その一つである『拾遺和歌集』(巻二十、哀傷、一三五〇・五一番)には
【聖徳太子高岡山辺道人の家におはしけるに、飢えたる人 道のほとりにふせり、太子のりたまへる馬とどまりてゆか
ず、ぶち(鞭)をあげてうちたまへど しりへしりへぞゆきてとどまる、太子すなはち馬よりおりて うゑたる人の
もとにあゆみすすみたまひて むらさきのうへの御ぞをぬぎて うゑ人のうへにおほひたまふ、うたをよみて
のたまはく
しなてるや かたをか山にいひにうゑて ふせるたび人 あはれおやなし
になれなれけめや さす竹のきねはやなきいひにうゑてこやせる たび人あはれあはれといううたなり
うゑ人かしらをもたげて御返しをたてまつる
いかるがや とみのを河のたえばこそ わがおほきみのみなをわすれめ】
寂蓮の入滅後にこの歌合の判をした慈円は次の判歌をもって寂連の勝ちとしている。
みればこれもあわれなりける衣かな 身をかくすとて身もかくれぬる 仍右勝歟
慈円は「身をかくすとて身をかくれぬる」の句に、聖徳太子が紫の御衣服をお脱ぎになって飢え人の身を覆われたことと寂連の入滅を暗示して詠むことで寂連の歌を勝ちとしている。
〔閑話〕食べる物に飢えて動けなくて横になっている親無しの旅人が、聖徳太子の歌に返歌ができるだけの教養があったというのが私の驚きだ!!!
参考文献:『日本の作家100人〜人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版